聖書メッセージ(ルカ18:15~27)『神の賜物』

『神の賜物』

聖書箇所 ルカ18:15~27
18:15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
18:18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
18:19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。
18:20 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
18:21 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
18:22 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
18:23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。
18:24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
18:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
18:26 これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

説教要旨
主イエスの祝福をいただこうとして、人々が幼子(赤子)を連れて来ました。ところが、弟子たちはそれを見て叱りました。幼子を価値のないもの(力ないもの)のように思っていたためでしょう。主イエスは、拒まされた幼子たちを呼び寄せ言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。…神の国は、このような者たちのものです。…子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(v16、v17)」ここに「神の国(v16)」「神の国にはいる(v17)」との表現が出ております。後に見て言いますが、役人の質問の中には「永遠のいのち(v18)」という表現があり、その「永遠のいのち(v18)」が「神の国にはいる(v24)」「救われる(v26)」という表現に言い変えられています。神の国に入る、永遠のいのちを受ける、救われると様々な表現が出ておりますが、これは、別々のことを表しているのではなく、一つのことを表し、「罪から救われる」ということです。造り主なる神から離れていることが「罪」であり、私たちは、様々な問題の中に生きておりますが、その問題の根は、神から離れていることです。神に背き、罪の中を歩み、そして、地上での生涯を終えた後に神がおられない永遠の死に自ら向かっております。主イエスは、私たちを罪から救い出すために、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり、苦しみ忍ばれ、死んで下さり、神との和解と、今そして永遠に神とともに歩む新しいいのちを与えて下さるのです。

では、この救いをどのように自分のものとすることができるのでしょうか?子どもは、親の愛を信頼し、親の与えるものを受け取ります。そのように、神様の愛を信頼し、イエス様の祝福(救い)を必要と認め、受け取るのです。一方、役人(ユダヤ教の会堂の役人と思われる)は、「私は何をしたら、永遠のいのちを(v18)」と言いました。何かをして、即ち戒めを守って救いを受けることができるとしていたのです。主イエスは、役人と同じ土俵に立って「では、持ち物を売り払って、貧しい人々に与えよ。」と告げられることにより、戒めを守り得ていない彼の真の姿を自覚させようとしました。主イエスが、v20で挙げている五つの「戒め」は、十戒の中の後半の人との関係における教えです。でも、十戒の最後の教え「すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない(出エジプト20:17)」は挙げず、小さい時から戒めを守っていると告げた彼に「持ち物を売り払い」と告げました。彼の富みに対する貪り(執着心)を明らかにしたのです。さらに、それは十戒の第一戒、神を神とする戒めを破っていることを、神よりも富を大事とし支配されてしまっている姿を明らかにしたのです。

主イエスは、仰せられました。「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。(v22)」「天に宝を積む(v22)」歩みへと導かれるのです。それは、富や人の評価などこの世のものを望みとし配される歩みから、神に向きを変える歩みです。言わば、悔い改め、方向転換です。そして、イエス・キリストに従うことへと招かれたのです。人は、自分の力によっては罪から救われないのです。様々なものの虜になってしまっております。罪に対し無力です。でも、「人にはできないことが、神にはできるのです。(v27)」救いは、神の一方的な恵みです。その救いが欲しいなら、必要なことはただ一つです。自分に救いが必要と認め、神に無力な子どものように拠り頼むのです。主イエスの祝福を与えて頂きたいと主イエスに手を差し出すのです。

私たちは、罪からの救いが必要ではないでしょうか。神以外のものを究極的なものとし、妬み、恐れ、怒りに支配されているのではないでしょうか。神の救いの恵みを受け取らせていただきましょう。イエス様の救いの祝福に与らせていただきましょう。罪赦され、永遠のいのちが与えられ、イエス様の下さる祝福の内を新たに歩み出すことができるのです。