聖書メッセージ(Ⅰテサロニケ1:1)『恵みと平安が』

『恵みと平安が』

聖書箇所 Ⅰテサロニケ1:1
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。

説教要旨
本日より、第一テサロニケ書を見ていきます。パウロは、第二次伝道旅行時、テサロニケを訪ね、福音を伝え、主イエスを信じる者が起こされました。しかし、直ぐにあるユダヤ人が反対し暴動を起こしました。パウロは、テサロニケを退かなければならず、アテネに行きました。テサロニケ教会を心配し、行こうと試みましたが行くことができず(2:17~18)、パウロは、同労者テモテを送ました。(3:1~3)戻って来たテモテからテサロニケ教会の報告を受け(3:6)、迫害の中でも主イエスへの信頼に堅く立ち、互いに愛し合っている歩みを知り、慰めと喜びに満たされました。(3:7~9)しかし、同時に依然苦難の中に置かれ、また信仰的な課題も抱えており、パウロは、信仰の励ましと教育のためにこの手紙を書き記したのです。

「パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。(1:1)」著者は、パウロだけではなくシルワノとテモテも連名で挙げています。彼らは、パウロの第二次伝道旅行の同伴者で、テサロニケにも行き、福音を宣べ伝えた人物でした。宛先は、「父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会」と記しました。テサロニケ教会はパウロに起源があるのではなく、パウロに属するのでもなく、父なる神と主イエスに起源があり、父なる神と主イエスに属しているのです。私たち一人ひとりと教会は、父なる神と主イエスにより贖われ、主のものとされています。私たちの信仰の歩みにおいて、以前はいかなる者であり、今いかなる者とされているのかの自己理解と自覚は、大変大切なものです。以前は、神に背を向け、神から離れ、神との関係において死んだもので、神の御怒りを受けるべき者でしたが、今は、父なる神と主イエスにより、罪から贖われ、完全に主ご自身のものとされたのです。

「恵みと平安があなたがたの上にありますように(1:1)」「恵み」全く値しないものに注がれる神の私たちへの一方的なご愛、慈しみ、憐れみです。「平安」神との和解、神との和解に基づく平安、人との平和です。パウロは、「恵みと平安」の順番で記しました。パウロの手紙の挨拶は、すべてこの順番です。平和の土台は、神の恵みであるのです。自分たちの力で神との和解、平安の歩み、人との平和を築くことができず、神の恵みに拠るのです。パウロは、テサロニケ教会の上に神の恵みと平安が「あるように(v1)」祈りました。これは、テサロニケ教会、そして私たちが、まだ恵みと平安が与えられていないから、これから与えられますようにとの祈りではありません。すでに神の恵みを受け、平安のもとにあるのです。私たちは、恵みによって救われ贖われたのです。しかし、私たちは、天の御国で主の御前に立たせていただくその時まで、試練があり、闘いがあり、神から引き離そうとする誘惑があります。私たちは、神の恵みとそれに伴う平和(祝福)がなければ、罪から贖われることがなかったのですし、また、この神の恵みとそれに伴う平和(祝福)がなければ、キリスト者として歩み得ない者であるのです。ですから、パウロは、恵みと平安があるように、恵みから恵みへと成長していくように切に祈ったのです。創世記32章において、ヤコブは、騙した兄エサウと再会するにあたり、兄エサウが400人を引き連れてやって来ていると使者から聞き、恐れに満ち、神様と格闘するような祈りの交わりを持ち、「私を祝福してくださらなければ。(創世記32:6)」と拠りすがり、祝福を得、兄エサウとの和解へと導かれていきました。私たちも、日々の働きにおいて、介護や子育ての務めにおいて、主の福音をお証していく歩みにおいて、闘いを覚え、緊張を覚えています。しかし、その中だからこそ、まず神の恵みと平安に拠りすがって、神の祝福をいただいて歩んでいきましょう!そのような祈りを絶えずしつつ、2016年の後半、導かれて参りましょう!