聖書メッセージ(Ⅰテサロニケ5:12~15)『お互いの間で』

聖書箇所 Ⅰテサロニケ5:12~15

5:12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。

5:13 その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。

5:14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。

 

説教要旨

信仰生活は、個人戦ではなく、神の御言葉に聴き養われ、互いに慰め、励まし、高め合っていく歩みです。(4:18、5:11)パウロは、その教会の交わりについて、より具体的に教えます。v12、v13において、霊的指導者を認め、深い尊敬を払うよう告げました。霊的指導者は、教会において、神の御言葉を教える人です。16世紀の宗教改革において、神の前において、一人ひとりが聖職者を介さず神との直接的な交わりに生きることができる、身分において聖職者と信徒の差別はないという「万人祭司」が確認されました。と同時に、主イエス・キリストは、ご自身の教会に、聖徒たちを整え、神と教会に仕え、ご自身の教会を建て上げるために御言葉を教える教職者をお立てになられるのです。(エペソ4:11、12)パウロは、そのような霊的指導者を「認めなさい(v12)」「その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい(v13)」と告げました。「その務めのゆえに(v13)」と述べておりますので、この教えは、霊的指導者のあるべき姿をも示しているでしょう。神の言葉を教えることに労苦するのです。「主にあって(v12)」と、主イエス・キリストに召され立てられ、信頼し、主の御言葉により指導し訓戒するのです。それが霊的指導者の務めです。そして「お互いの間に平和を保ちなさい。(v13)」と霊的指導者と信徒の間に平和を保っていくことを教えます。こうパウロが霊的指導者を務めの故に敬い、霊的指導者は御言葉に労苦し、霊的指導者と信徒が平和を保つように教えた目的は、霊的指導者の擁護のためではありません。「務めのゆえに(v13)」とありましたが、神の言葉が正しく語られ、正しく聴かれるためです。私たちが御言葉により霊的に成長するためです。神の福音が神から失われ罪に苦しむ世に宣べ伝えられるためです。

 

v14、v15は、霊的指導者への信徒に仕える教えとも言えます。さらに、信徒同士の交わり「相互牧会」の教えでもあります。「すべての人に対して寛容でありなさい。(v14)」「寛容(v14)」とは、忍耐強く愛することです。「気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け(v14)」の土台となることでしょう。そして、v15の「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。(v15)」は、「寛容(v14)」「忍耐強く愛する」ことをさらに説明しているでしょう。それを互いの間、教会の交わりにおいてなすのです。しかし、それに留まらず、「すべての人に対して(v14、v15)」なすのです。教会の愛の交わりが広げられていくことを教えております。教会の愛の交わりに、人々が加えられていくことを指しているでしょう。また、私たちが置かれた場所、子育てや夫婦の歩みや職場の人間関係において、忍耐強く愛することを教えております。

 

いかにそうなしていくのか。神の言葉が正しく語られ、正しく聴かれることの教えに続いて、互いの間でとすべての人に対する寛容が言われていることが大切なことでしょう。神の御言葉に聴き養われていくのです。神は、御言葉(聖書)を通し、私たちに語りかけ、私たちと交わり、私たちをお養い下さいます。神は、真に忍耐強いお方です。主イエス・キリストは、つばきをかけられ、葦の棒で叩かれ、嘲られても、嘲り返さず、彼らのために祈られました。その神と主イエス・キリストとの交わりに、御言葉を通し生かされていくときに、神の御力により造り変えられていくのです。

 

神の御言葉、また見える御言葉と言われる聖餐の恵みに養われ、私たちを愛し十字架の死にまでも従われ罪と死に勝利し復活されたイエス・キリストを見上げ、愛の忍耐の歩みへと導かれて参りましょう。そして、この人を生かす神の御言葉が正しく語られ、正しく聴かれるために、御言葉を取り次ぐ者を覚え、また平和が保たれていくことを覚えお祈りいただきたく願います。