守谷聖書教会歓迎礼拝説教要旨    2025/10/12

 

『獲得された真の平和』(イザヤ11:6-9)         斎藤 成美師

 

聖書箇所  イザヤ11:6-9

11:6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。

11:7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。

11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。

11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

 

説教要旨

日本のいたる所で、クマ出没で悲しい悲劇が起こっている。熊が人里で人間と出会う。熊には「恐れ」があると共に、子どもを守ろうとする「攻撃性」がある。熊も人間もどちらも悪くない。ただ出会っただけ。そこに「悲劇」が生まれる。これが罪、この「づれ」が罪である。

ところが、聖書にはマンガみたいな事が書かれている。

 

Ⅰ解放された動物たち(イザヤ11:6-9)

動物界から敵意が一切なくなり、平和になる日が来るという。(7節)雌牛(めうし)と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子(しし)も牛のように藁(わら)を食う。クマから、人間対する敵意が無くなり、あの大きなザラザラした舌で、人間の顔を「ベア~」となめてくれる。気持ち悪いという感触があったとしても、もう怖れはない。(9節)わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず滅ぼさない。「主を知ることが」、海をおおう水のように地に満ちるからである。全被造物は、神の創造の目的、創造の秩序を改めて知る。新しくされた世界が存在する。

 

Ⅱこれは救い主イエス・キリストの十字架による(マタイ27:46)

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「わが神、わが神、どうして

わたしをお見捨てになったのですか」と。十字架は罪に対する神の裁き。外側に見えるのはイエスの哀れな姿。しかし、見えない世界・霊の世界では「すごい事」が。罪に対する神の燃える火ような怒り。神は人間の身代わりとなった御子に対して容赦なく刑罰を下した。神の御子は永遠に見捨てられた。「永遠」は時間的により、質的に捕らえる。一瞬にして永遠の壮絶な見捨てに会う。そして、イエス・キリストの身代わりの死は完璧。神はそれを良しとされ、人間の罪を赦された。

 

Ⅲその結果 (イザヤ書44:22)

わたしは、あなたの背きを「雲のように」、あなたの罪を「かすみのように」消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」

これは、紀元前681年頃の預言。十字架の救いまで、まだ600年以上もある。しかし、神は「消し去った。」と過去形で言う。神には一度発すると訂正はない。「発する」卽「事実」である。神は完全であるから。それ故に神の預言はいつも過去形で表される。

 

Ⅳ新しくされた人間 (Ⅱコリント5:17)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」神の約束によれば、「新しく造られた人」が既に存在する。「キリストの十字架の死によって出来た罪のない清らかな新しい人」。今は、古き人がまだ存在するので、まだ「新しい人」の良さは分からない。信仰によって、ある人は見ることが許される。しかし、定められた日が来るとそれは実現する。あなたの人生を狂わせたあなたの一番の問題。どん底に落としたあなた自身の一番の問題。あなたを苦しめたあなた自身の弱さの罪問題。一生闘わねばならないあなたの罪性の問題。しかし、「新しいあなた人」が既にキリストによって存在する。私達は主にあって喜び、期待し、楽しみにして待ち望もう。


守谷聖書教会礼拝説教要旨     2025/10/5

 

『見ずに信じる人たちは幸い』(ヨハネ20:24~29)       

 

聖書箇所    ヨハネ20:24~29

20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」

20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 

説教要旨

復活された日の夕、主イエスがユダヤ当局を恐れていた弟子たちに現われ神の祝福に与らせ罪の赦しを告げる使命を託された時、十二弟子の一人トマスは一緒にいませんでした。(v24)トマスは熱血的で真っすぐな人物でした。(11:16)(14:5)トマスはたまたまいなかったというよりも主イエスの十字架の死に落胆し弟子たちの交わりから距離を取っていたのでしょう。トマスは弟子たちの「私たちは主を見た(v25)」との言葉に対し「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません(v25)」と強く言いました。他の弟子たちの認識の甘さを指摘しているようでもあります。

 

主イエスは次の日曜日再び弟子たちに現われました。今度はトマスも一緒でした。戸には鍵がかけられていました。弟子たちは一週間前復活の主に出会い喜んだのでしたが(v20)、恐れの中に戻っていたのです。主イエスはその弟子たちに再び「平安があなたがたに」と神の祝福に与らせました。続いてトマスに向かわれました。トマスの一つひとつの言葉を聞いておられたかのように一つひとつなぞるようにして仰せられました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい(v27)」トマスの落胆、頑なになっている部分、迷い、真実への求めを主イエスは全てご存じであられたのです。そして仰せられました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい(v27)」トマスは告白しました。「私の主、私の神よ(v28)」続いて主イエスは「あなたはわたしを見たから信じたのですか(v29)」と叱責ではなく、出会って信じたとの事実を確認せられました。でも主イエスを直接に見ることができない時代が直ぐに来ることを覚え「見ないで信じる人たちは幸い(v29)」と語られました。復活を見た弟子たちの証言、聖書によってイエス・キリストを信頼していく幸いを語られたのです。

 

①主イエスはまことに愛なるお方です。信仰を求めておられる者には「信じない者ではなく、信じる者になりなさい(v25)」と御言葉をもってご自身への信頼に招かれています。神の赦しと永遠のいのちに招かれています。クリスチャンに向かっても語られています。一週間の歩みの中で恐れや罪の思いに幾度も戻ってしまう私たちを幾度もご自身への信頼に御言葉をもって立たせようとしてくださいます。②私たちの歩みを考えたいのです。トマスは主に出会ったという弟子たちの中に独り居ることは居心地が悪かったでしょう。でもトマスは弟子たちの交わりの場に一緒にいたのです。「信じていないのに、分からないのに、礼拝式にいて良いのですか」とおっしゃる方があります。そのまま礼拝の場にいていただきたいと願います。信仰者も主への信頼を失うような時を通らされることがあります。しかし主イエスは信仰の迷いを決して蔑むことなく、私たちの歩と合わせ、御言葉をもってご自身を現わしご自身への信頼に導かれようとされます。礼拝に私たちを招かれるのです。ですから教会の礼拝と交わりの中に身をそのまま置き主の導きを待ちたいと願います。一方で弟子たちはトマスがいられる対応をなしました。信仰を求めている方や信仰の迷いがある者もそのままいられる教会でありたいと願います。③この主イエスの導きの中で御言葉は語ります。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない(詩篇95:8)」今御言葉があなたに語られているならば主の招きに応え、主を個人的に信頼し告白し洗礼の恵みに与っていただきたいと願います。信仰者は今御言葉があなたに語られているならば主イエスへの信頼と従順に新たに立ちたいと願います。そして主ご自身が願われている永遠のいのちをいただき、永遠のいのちに生かされ、「幸いだ」という神の豊かな祝福の中を歩み出し、歩み続けていきたいと願います。


守谷聖書教会礼拝説教要旨     2025/9/28

 

『平安と派遣』 (ヨハネ20:19~23)

 

聖書箇所  ヨハネ20:19~23  

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 

説教要旨            

マグダラのマリアは弟子たちのところに行き「私は主を見ました(v18)」と告げました。弟子たちはそんなことは信じられなかった、半信半疑であったことでしょう。その日の夕方となりました。弟子たちがいたところではユダヤ当局の手が及ぶことを恐れて戸に鍵がかけられていました。固く戸を閉じて自分たちを守っていました。弟子たちは恐れの中に閉じこめられていました。主イエスを捨てて逃げた悔いもあったことでしょう。ずっと従ってきた主イエスが十字架にかけられ失った失望もあったことでしょう。人は様々な恐れの中に歩んでいます。人への恐れ、日々起こってくる一つひとつの出来事への恐れ、死への恐れがあります。また自分の至らなさに意気消沈することもあります。神に信頼し祈り歩んでいますが、この世の力が神の力以上に見えて神への失望の中に置かれることさえあります。

 

そうした弟子たちの中に復活された主イエスは入って来られ、立ち、仰せられました。「平安があなたがたにあるように(v19)」これはユダヤ人の通常の挨拶です。しかし、挨拶以上の意味合いがあったでしょう。(v21、v26)「平安」とはギリシャ語で「エイレネー」ですが、それは旧約聖書のヘブル語の「シャローム」を受け継いでいます。シャロームは神との平和に基づいた人間関係の平和、肉体的・精神的穏やかさ、生きる喜びや心の安らぎというような神の祝福が満ちた状態を表しています。それは「こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された(v20)」とあるように、主イエスが十字架で私たちの罪の身代わりに死なれ、死に打ち勝ち復活されたことにより成し遂げられた救いの御業に基づく神の祝福でした。主イエスを裏切った弟子たちに対する赦しの言葉でした。ユダヤ当局を恐れる弟子たちへの「わたしはあなたがたとともにいる」との約束の言葉でした。罪の世と死に打ち勝った勝利の言葉でした。弟子たちは「主を見て喜んだ(v20)」のです。主イエスは今日もこの礼拝において恐れや失意の中に閉じ込められている私たちのところに「来て」、教会の真中に私たち一人ひとりの傍らに「立って」、「平安があなたがたに」と語り、その祝福に与らせてくださいます。この状況のどこにとの思いの中におられるかもしれません。でもそういう私たちのところに来て、私たちの思いや苦しみの側に立って「恐れるな、わたしはあなたとともにいる」と仰せられています。その御言葉に聴いていきたいと願います。

 

主イエスは弟子たちにご自身の平安を与えられた後、彼らを世に遣わすとの使命を告げられました。(v21)派遣にあたって聖霊を受け取るよう告げられました。(v22)使命の具体的内容を告げられました。(v23)弟子たちに委ねられた使命は罪の赦しに関わる務めでした。これは教会が人間の罪の赦しと裁きを決定する権利を持っているということではありません。人間を赦しまた裁くことは神ご自身がなされることです。弟子たちがなすべきことは聖霊によって神の赦しと裁きを告げ知らせることです。教会がイエス・キリストを伝えることによって神の赦しをもたらすことになるのです。しかし拒絶する者たちは神の赦しを失うことになるのです。チラシ配布、コンサートにお誘いする…。それだけではなく私たちは「キリストの香り(Ⅱコリント2:15)」です。主イエスの証し人としてこの週新たに派遣されていきます。但し主の証しということにおいて覚えたいのです。「平安があなたがたにあるように(v19)」に続いて派遣の言葉でも良かったはずですが、派遣の前に再び主イエスは「平安があなたがたにあるように(v21)」と仰せられました。十分主イエスの愛と祝福を受けましょう。手を広げて受け取りましょう。その上で主の愛と祝福をもたらす証人として遣わされていきましょう。


守谷聖書教会礼拝説教要旨    2025/9/7

 

『なぜ泣いているのですか』(ヨハネ20:11~18)

  

聖書箇所   ヨハネ20:11~18

20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。

20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

 

説教要旨

マグダラのマリアは墓の外にたたずんで泣いていました。主イエスを十字架で失い、亡骸さえもどこかに行ってしまいました。悲しみに満ち、途方に暮れ、泣くことしかできませんでした。私たちもただ涙が出、望みを抱けない状況の中に置かれることがあります。頼りとしていた人を失う、信頼関係を失う、穏やかな日々を失う、健康を損なう…。マリアは“独り”でした。独り悲しみや苦しみの中に置かれるのです。

 

そんなマリアが独り泣きながら、墓の中を覗き込むと、二人の御使いがおりました。(v13)彼らは「女の方(v13)」と女性への一般的な呼びかけで呼び、「なぜ泣いているのですか(v13)」と悲しみの理由を問い問わせました。復活された主イエスも墓の外に立っていましたが、彼女は気づきませんでした。主イエスも「女の方」と呼び、涙の理由を問い問わせ、さらには「だれを捜しているのですか(v15)」との尋ねを加えました。主の復活を全く考えておらず、物体としての亡骸を失ったことを悲しんでいるマリアに「何を」ではなく、「だれを」と尋ね、ご自身の復活に気づかせようとされたのです。でもマリアの心の眼は閉ざされたままでした。(v15)主イエスはそうした彼女の名を呼ばれました。「マリア(v16)」マリアの悲しみをすべてご存知で、その悲しみと悲しみの根である主への不信頼から連れ出すようにして「名」を呼ばれたのです。彼女ははっと心の眼が開かれ、主イエスだと分かり、答えました。「ラボニ(v16)」マリアは喜び主イエスの足にすがりつきました。主イエスはしばらくして彼女に告げました。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです(v17)」マリアは主イエスを「先生」と呼びました(v16)。主イエスは十字架で死なれ、復活され、永遠のいのちをもたらす救いの御業を成し遂げられ、主イエスの御思いは天に昇り、聖霊を送られ、人々を「永遠のいのち」に与らせることでした。だからそれを妨げるようにして「すがりついていてはいけません(v17)」と仰せられたのです。マリアに、今までの「先生」という人間的な交わりではなく、聖霊を遣わし、永遠のいのちをもたらすことを教え、その永遠のいのちの交わりに与らせようとされたのです。「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します(10:3)」「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです(10:10)」「それぞれ名を呼んで(10:3)」です。ダビデは「主は私の羊飼い(詩篇23:1)」と「私の」と歌いました。主イエスは私のすべてを真にご存じで名を呼び、悲しみと不信頼から連れ出し、日々の歩みに助けを与え、聖霊によってこの世の苦しみの中で永遠のいのちに生かし続けてくださるのです。人は朽ちていきます。頼りとしていたものを失うこともあります。しかし、主イエスは朽ちないお方です。主イエスは死に打ち勝ち復活され、いのちの日の限り、そして死の時もともにおられ、天の御国に私を導き入れ、天の御国においては私の涙をことごとく拭い取ってくださるのです。(ヨハネ黙示録21:4)

 

主イエスは、いのちの主といのちにマリアを与らせ、そのいのちの主といのちを弟子たちに伝えるよう託されました。マリアは主の仰せの通りになしました。マリアは2節では弟子たちに「主の不在」を告げましたが、18節では「主が生きてともにおられること」を告げたのです。主イエスは、私たちにいのちの主の証しを託してくださっておられるのです。

 

「なぜ泣いているのですか」主イエスは私たちの涙を十分に知りつつ、ご自身が生きてともにおられることを語りかけ、その涙から連れ出そうと名を呼んでくださっておられ、いのちの道へと導き続けてくださっておられます。私の羊飼いである主イエスに感謝をささげ、主に信頼し、そしてその羊飼いなる主イエスの証しに生きていきたいと願います。

 


守谷聖書教会礼拝説教要旨    2025/8/31

 

『まだ理解せず』(ヨハネ20:1~10)                

 

聖書箇所  ヨハネ20:1~10

20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。

20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」

20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。

20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。

20:6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。

20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。

 

 

説教要旨

マグダラのマリアをはじめ女性たちが日曜日の早朝まだ暗いうちに主イエスが埋葬された墓にやって来ると、墓から石が取りのけられているのを見ました。(ギリシャ語ブレポー:目に入る)マリアは墓荒しにあったと思い、弟子たちにその旨を伝えました。ペテロとヨハネは墓に走って行き、ヨハネが先に着きました。足の速さや年齢を表しているのではないでしょう。主イエスを三度拒み、主イエスを十字架で失い、ユダヤ指導者たちを恐れるペテロの心の重さが表れていたのでしょう。ヨハネは先に着きましたが、身をかがめ、亜麻布が置いてあるのが見えましたが(ブレポー)、墓の中には入りませんでした。ペテロは遅れて来ると、墓に入り、同じく亜麻布が置いてあるのを見ました。(セオーレオー:探る)イエスの体を巻いていた亜麻布はそのまま置いてあり、イエスの死体がすっぽり抜けたままのようになっていました。墓荒らしではないとペテロは亜麻布を確かめ、思ったことでしょう。ヨハネも後に墓に入ってきて、その亜麻布を「見て(エイドン:肉眼で見る)、信じた(v8)」のです。ヨハネは恐らく「イエスはよみがえられた」と信じたのでしょう。でも確信までは至らなったようです。ペテロに何も話しておりません。(21:7参照)ペテロとヨハネは、聖書が約束していた神の贖いのご計画が成し遂げられることのしるしとして主イエスが復活しなければならないことをまだ理解しておらず、主イエスが復活されたとの信頼、また確信へとは至っていなかったのです。(v9)

 

そして自分たちのところへ帰っていきました。(v10)主イエスを捜し求めず、ただ自分たちの世界、恐れの中に戻っていったのです。(v19参照)一方、彼らとは対照的にマリアはそのところに泣きながらそのままいました。(v11)主イエスを捜したのです。「からだをかがめて墓の中をのぞき込み(v11)、御使いを見(v12、セオーレオー)、イエスを見ました。(v14、セオレオー)そして、復活の主イエスを見たのです。(v18、ホラオー:出会う、交わる)ヨハネは、自分は確かに先に墓に着き亜麻布が見えた、でもそれ以上は墓の中には進んで行かなかった、ペテロは心が重い中で墓に入り亜麻布を見て探り求めたが、自分はそうしなかった、そして亜麻布をこの目で見て復活が起きたかもしれないと思ったが確信には至らなかった、でもそれ以上留まって主を捜さずに自分たちのところへ帰ってしまった、そんな自らを言おうとしているのでしょう。

 

ここには私たちの信仰の在りようが教えられています。私たちは日常の歩みにおいて様々なことを経験します。小さなことから大きなことまで主がそこにはおられないような状況の中に置かれることがあります。自分の願いや計画とは違うような中に置かれることがしばしばあります。それを目にします。その状況が見えます。辛いことです。直ぐにでも解決を願います。しかし一向に苦しみや見える状況は変わらないのです。そういう中で私たちはどう歩むのでしょうか。目に入ってくるもの、見えるものを追っていき易い私たちですが、そうではない歩みが求められているのです。御言葉に聴き、御言葉に探り求めていくのです。泣きたいのに泣かず、分からないのに分かるようにするのではありません。聖書を開き、礼拝説教に聴き、「主よ、お語りください」と求め、「主よ、どういうことでしょうか」「何をお教えになろうとされているのでしょうか」と主に肉薄していくのです。その歩みに復活された主イエスは出会ってくださいます。気づきを与え、主の慰め、喜び、御力を与えてくださいます。見えてくるもの、見える状況の中でのこの週の歩みがあります。その中で御言葉に聴き、主と主の御心を切に求めていきましょう。主をより知っていく幸いの中に生かされていく9月でありたいと願います。


守谷聖書教会礼拝説教要旨    2025/8/24

 

『主イエスの葬り』(ヨハネ19:38~42)              

 

聖書箇所  ヨハネ19:38~42

19:38 その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。

19:39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。

19:40 彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。

19:41 イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。

19:42 その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。

 

説教要旨

主イエスは十字架に架かられ死なれました。当時のユダヤ社会において「木にかけられた者」は神に呪われた者の死であり、その亡骸は粗末に扱われました。そういう状況の中でアリマタヤのヨセフという人物が主イエスの亡骸の引き取りをピラトに願い出ました。またニコデモも埋葬のために沢山の量の高価な没薬と沈香を混ぜ合わせたものを持ってやって来ました。主イエスはユダヤ人の埋葬の習慣に従って香料と一緒に亜麻布で巻かれ、エルサレムの園のまだ誰も葬られたことのない新しい墓に葬られたのです。当時、誰しもがエルサレムに墓を持つことを切望していましたが、そうできた者は有力者のみでした。また園に葬られるのは王であったことを旧約聖書は告げます。そして誰も葬られたことがない新しい墓とは神の働きのために特別に取り分けられた墓を表しました。十字架に架けられた囚人が埋葬されるのとは天地の差でした。「名誉ある葬り」「王の葬り」でした。その王とはこの世の政治的王ではなく、人に罪の赦しと永遠のいのちをもたらす王でした。

 

主イエスが丁重に葬られるようになったのは、ヨセフとニコデモによりました。ヨセフはユダヤ最高議会の議員でした。ある時イエスの弟子となりましたが、ユダヤ人を恐れ、自分が弟子であることを隠し続けていました。ニコデモも同様でした。(ヨハネ12:42~43)しかし、そういう彼らが主イエスの十字架を見たのです。十字架を負っていかれるお姿、嘲られ、罵られ、そして渇き、しかし力強く「完了した」と叫ばれたお姿。彼らは十字架の死が贖罪の死であったとの理解はなかったでしょう。でも主イエスの十字架の死に神聖なものを感じたのではないでしょうか。そしてゼカリヤ書12章の預言通り、主イエスの弟子であることを隠してきた卑怯な自分の罪を悲しんだのでしょう。そしてどんなに議員の立場が危うくなろうとも押し出されて主イエスの弟子であることを公にし、埋葬を申し出、丁寧になしたのです。主イエスの十二弟子たちは引き取りに来ていないのです。十字架において神の贖いの業が成し遂げられ、ヨセフとニコデモは主イエスの十字架の死と聖霊によって新しくされ、人の栄誉よりも神の栄誉を求める者となっていったのです。

 

イエス・キリストの十字架の救い、そして聖霊は私たちを深く内から造り変えていきます。私たちは信仰と世の間で中途半端な態度を取ってしまうことがあります。クリスチャンであることを鮮明にできない弱さや痛みもあります。でも主イエスの十字架を見つめ、このお方と共に歩んでいくとき、聖霊の働きの中で主イエスの証人として変えられ、その御力に押し出され勇気をもって歩むことができるのです。命じられ自分でなすのではなく、押し出されていくのです。ですから主イエスの十字架のもとに立っていること、聖霊の働きに日々身を委ねていくことが私たちの信仰の歩みの土台、中心です。また私たちは家族の救いや信仰継承のことを祈っていますがその実が見えて来ないことがあります。また教会のある人を見て信仰が中途半端であるように見え、この世と同じような価値観や考え方のみで生きているように見え、裁いた目で見てしまうことがあります。でも、かつては自分自身が全くそう歩んでいました。でも、主がお育みくださった聖めの恵みを忘れて裁いてしまうのです。確かにヨハネ福音書9章には目の見えない人が主イエスの救いに与り即ユダヤ指導者を全く恐れなかったことが記されています。それと同時に同じヨハネ福音書はユダヤ人を恐れ主の弟子であったことを隠していたヨセフやニコデモが少しずつ変えられ、ある時に弟子たちも果たせなかったここぞの働きをなしたことを告げているのです。主は立たせてくださるのです。主は立たせてくださっているのです。それを信頼し、背後で祈り続けていく者でありたいと願います。


守谷聖書教会礼拝説教要旨    2025/8/17

 

『神の大きなみわざ』(ヨハネ19:28~37)             

 

聖書箇所  ヨハネ19:28~37

19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。

19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

19:31 その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。

19:32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者と、もう一人の者の脚を折った。

19:33 イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。

19:34 しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。

19:35 これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。

19:36 これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、

19:37 また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。

 

説教要旨

主イエスは十字架上でいよいよ御自身の終わりを覚えつつ、「わたしは渇く(v28)」と仰せられました。肉体的渇きであるとともに、神に裁かれ神との交わりを失う恐ろしき霊的渇きでした。主イエスが「渇く(v28)」と告げた時、兵士たちはイエスを嘲り、蔑む行為をなしました。酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付け、イエスの口もとに持っていきました。重さでたわみ、飲むことができるかできないかのところで面白がったのです。また、ぶどう酒は“酸い”ぶどう酒で、渇きを助長させました。人間の恐ろしいまでの「罪性」「罪の深さ」が示されています。しかし、主イエスはそういった恐ろしき人間の罪を完全に負い切られ、神の裁きを身代わりに受け通され、「完了した」と神の贖いの業を成し遂げられたのです。全人類の贖いの御業が成し遂げられたのです。

 

神の贖いの御業が完了したことのゆえに、イエス・キリストが人間にもたらしてくださったものがあったことが続いて示されていきます。ユダヤ指導者たちは律法に従い、翌日まで死体を十字架につけたままにしないようにするために足の骨を折って死を早め取り降ろしてほしいとピラトに願い出ました。(v31)兵士たちはイエスとともに十字架につけられた他の囚人たちの足の骨は折りましたが、主イエスのところに来ると、明らかにすでに死んでおり、骨を折ることはしませんでした。しかし兵士の一人は死を確認するためだったと思われますが、イエスの脇腹をやりで突き刺しました。主イエスの中から「血と水(v34)」が出て来ました。ヨハネは、この一連の出来事について、自らは目撃者であり、真実を語っていると告げ(v35)、それは「あなたがたも信じるようになるため(v35)」と強調しました。そして聖書の預言の成就であるとしました。(v36~v37)骨が折られなかったのは、イエスの義(詩篇34:19)とイエスが過ぎ越しの御業における子羊(出12:46、ヨハネ1:29)であることを示しました。主イエスは血を流し「罪の赦し」を私たちにもたらしてくださったのです。また、ヨハネは「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る(v37)」とのゼカリヤ書12:10の預言を挙げ、聖霊が降ること、また「罪と汚れのきよめの一つの泉が開かれる(ゼカリヤ書13:1)」ことが成就したとしました。主イエスは水、即ち「永遠のいのち」「聖霊」を私たちにもたらしてくださったのです。

 

主イエスの十字架の死により「罪の赦し」と「永遠のいのち」の救いの土台は据えられました。救いにおいて私たち人間の側から付け加えることは何一つないのです。イエス・キリストを救い主と信頼するとき、罪の赦しと永遠のいのちを受けるのです。そして、クリスチャンはこの完了した贖いの御業のゆえに罪の赦しを確信し、そして罪赦されたゆえに罪を離れ、罪と戦い、神の前に相応しくない思いや言葉や行為を正直に神に告白し、主の赦しの中を歩み続けていきます。また、開かれた「罪と汚れのきよめの泉」から、いのちの水を汲み続けていきます。「泉」ですから汲んでも尽きないのです。前回の箇所との兼ね合いから言うならば、ヨハネはマリアを引き取りましたが(v27)、主の教会に仕えていく力、弱さを覚える者や苦しむ者を負っていく愛と忍耐をいのちの泉から受け続けていくのです。私たちの信仰は充電式ではなく、絶えずコンセントにつながっている歩みです。

 

主イエスは大声で私たちを招かれています。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります(7:38~39)」神の贖いの御業によってもたらされた「罪の赦し」と「永遠のいのち」「聖霊」を受けていきたい、受け続けていきたいと願います。


守谷聖書教会歓迎礼拝説教要旨  2025/8/10

 

『世に神の愛は在るのか?』(創世記1:24~31)   斎藤成美師       

 

聖書箇所  創世記1:24~31

1:24 神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。

1:25 神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。

1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。

1:30 また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。

1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 

説教要旨

先週は広島と長崎の原爆記念式典があった。今世界では戦争や殺し合いが展開している。また、自然災害(山火事、洪水、陥没など)で悩まされている。それでなくても、日々個人個人の事故、災難、試練で悩まされているのに。この世に神の愛は在るのか?と思わされる。

 

私達の住む地球の成立は「進化論」で説明され、それが真理のようになっている。しかし、聖書は「この地球の全て良いものは、神がお造りになられた」と強調され、聖書の最初に創世記という書物で説明されている。しかし、その地球に人間を通して罪が入り、全体が狂わされ、ものによってはその形さえ変えてしまった。しかし、そんな中でも、罪の中に居る私たちにも理解出来る部分がある。それが「自然界」である。

 

神は、全て必要なものを創造し、最後に人間を造られた。その事自体も神の愛の表れであるが、次の聖句に注目したい。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる」(創世記1章29、30節)。植物の種って、どうしてあんなに多いのだろう。それは、子孫

繁栄の為と動物たちの食料の部分を植物が受け持つからだ。罪が入ってからは草を食べなくなった動物もいるが、基本は草食である。植物が動物に与えるように、神は制定された。「無償で与える」は「愛」である。すなわち、愛の神がお造りになった地球は愛に満ちていた。無から偶然に出来たのではない。愛の造り主を覚えて初めて納得が行くのである。

 

イエスさまは、スズメを例えにして話された。マタイ6:26、「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます」スズメが餓死した話はない。シナイ山は、茶褐色のいくつかの岩山で出来ていて、雨が降らないから植物が育たない。ところが鳥が飛んでいる。岩山の窪みに水がわずかに貯まりそこに僅かな草が生える。そしてタネを稔り、鳥に提供している。神の創造の原則が成立されている。

 

夏場に現れ、人にはうるさがられるセミは、主に桜の樹に卵を産みつけると、1年後幼虫となり樹から下り地中に入り7年間という長い年月を過ごす。その後成長し殻を持った幼虫は、穴を掘り地上に出て桜の樹を登る。そして、時が来ると背中の部分が破れ、成虫が出て来る。時間をかけて羽を延ばし完成する。夜のうちに行なわれる。朝方になると泣き出す。「日暮らし」というセミは、羽根が透き通って美しく、鳴声も美しい。セミは雄だけが鳴き雌は鳴かない。雄が求愛して鳴く。セミは成虫になって約一週間で一生を終える。セミの役目は何か?地中に居る時から、樹液を吸い桜の樹の成長の助けているという。自然は神の愛と恵みと分かち合いでいっぱい。自然界が私たちの気持ちを癒してくれるのは、まだ神の愛が存在するからである。自然界は、そうでない部分もあるが、神の愛のメッセージに満ちている。


守谷聖書教会礼拝説教要旨      2025/8/3

 

『十字架のもとに』 (ヨハネ19:23~27)             

 

聖書箇所  ヨハネ19:23~27

19:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。

19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。

19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。

19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。

19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 

説教要旨

主イエスの十字架の下には「ローマ兵士たち」と「主に従ってきた女

性たち」がいました。ローマ兵士たちはイエスを十字架につけると、衣

を取り四つに分け、各自に一つずつ渡るようにし、下着は縫い目のな

い物であり裂かないでくじ引きをすることとしました。上着や下着は役

得でお金となりました。彼らは大きさに違いがないように衣を分けること

に集中し、少しでも大きなものを取ろうとしていたことでしょう。また誰に

くじがあたるかと興じていたことでしょう。しかしその中で神の救いのご

計画が着々と進められていたのです。(v25)ローマ兵士たちは主イエ

スに無関心で、上着や下着のみに心が向いていました。目に見えるも

ののみに心が向き、神に無関心である「世」が表されています。

 

その一方で、主イエスを慕い求めていた女性たちが同じく十字架の下におりました。「教会」が示されています。主イエスは母にヨハネを見させ「あなたの息子です」と言われ、ヨハネにマリアを見させ「あなたの母です」と告げ、ヨハネはマリアを自分のところに引き取りました。主イエスは十字架上で肉体的にも精神的にも苦しみの極みの中で自分ではなく、母マリアの苦しみに心が向けられていました。但しこれはただ主イエスの母マリアへの肉親の愛を表しているのではないでしょう。主イエスはマリアを「女の方(v26)」と呼ばれました。血の繋がりのないヨハネとマリア、それが主イエスの十字架の御業の中で一つキリストにある交わりが形造られることが表されていたのです。ヨハネはマリアを受けた、マリアの歩みを負った、苦しみをともに苦しんだのです。教会はローマ兵士たちの交わりと対照的です。ローマ兵士たちは主イエスに無関心で「衣」を取ったのです。(「取る」はマリアを「引き取る」と同じ言葉)心と心、彼らの歩みそのものが共有される交わりではありませんでした。教会は主イエスを仰ぎつつ互いの心と歩みが共有され祈られていく交わりです。聖書が次にヨハネとマリアを一緒に記しているのは祈りの場面でした。(使徒1:13~14)

 

クリスチャン、教会の歩みについて二つ覚えさせていただきたいのです。ローマ兵士たちは主イエスの十字架に無関心で富にのみ心がありました。クリスチャンは主イエスの十字架に全く無関心ということはないでしょう。でも、経済的なこと、仕事のこと、家族のこと、起こって来る出来事で思い煩い、心配し、そこにのみに心が向いてしまうことがあるのではないでしょうか。主イエスはそうした私たちの葛藤、戦い、思い煩いをご存知で、私たちのまことの祝福を願って仰せられています。「…まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。…(マタイ6:31~34)」主との関係の祝福がこの世における具体的な生活の祝福と守りに繋がっていることを覚えたいのです。第二に教会は主イエスを仰ぎつつ互いを顧み、互いの歩みを受け取り、祈り合っていく交わりであることを覚えたいのです。教会はヨハネがマリアを引き取ったように、互いの痛み、歩み、弱さを自分のものとして受け取って祈り覚えていきます。それが私たちが願い目指していく姿です。では、どのようにしたら「人を顧みる」「人の歩みを担っていく」「弱さを担っていく」人となることができるのでしょうか。私たちは自分自身の事でも重荷があります。そうしなさいと言われてもできないでしょう。ヨハネは十字架の下に立っていました。主イエスは父なる神との交わりの中で最も苦しい時に自分の痛みに思いが向いていたのではなくマリアの痛みに思いが向いていました。主の十字架を仰ぎ神と交わりにおいて魂が神の恵みと慰めに満たされ、心にゆとりが与えられ、そのような歩みをなしていくことができるのです。『たましいの慰め 心の余裕(堀肇)』です。