日時:2024年6月16日(日)PM1:00~3:00
聖書の箇所: マルコによる福音書10章後半
テーマ : ★子供の祝福
★金持ちの青年
★盲人のいやし
みことばの恵みを、共にわかちあいましょう。
5月の恵みをお分かちいたします。
今回は行事が重なってしまったため、短い時間になりましたが、大変よい分かち合いのときとなりました。
★パリサイ人達によるイエス様を試みるための質問
パリサイ人達は、イエス様を罠にかけるために、「夫が妻を離別すること」についての質問を行いました。
これは、もしイエス様が離婚を否定すれば、ヘロデ王の不正な離婚と再婚を批判することになり、モーセの律法の教えに従っていないと非難できるからです。
イエス様は、パリサイ人達の心を見抜いていたため、律法の本来の意味をお示しになられました。
人間が罪に陥る前には、離婚のような悲劇はありませんでした。罪の結果、人間が自己中心的になり、離婚という悲劇が持ち込まれました。私達はイエス様によって回復されているので、結婚の祝福を味わうことができることをあらためて感謝しました。
みことばを通して、いつも素晴らしい恵みを頂けることを感謝します。
ともにみことばの恵みを分かち合いましょう。
皆様のご参加を心よりお待ちしています。
日時:2024年5月26日(日)PM1:00~3:00
聖書の箇所:マルコによる福音書10章
テーマ
★子供の祝福
★金持ちの青年
★盲人のいやし
みことばの恵みを、共にわかちあいましょう。
4月の恵みをご報告いたします。
★イエス様の変貌
イエス様の変貌により、イエス様が「神ご自身」であることをお示しになられました。これからイエス様がお受けになる十字架について、弟子たちが心の備えができるようにしてくださった、弟子に対するご配慮の素晴らしさを改めて覚えました。
★悪霊にとりつかれた者のいやし
「この種のものは祈りによらなければ」
・強いサタンの働きには、祈りが勝利の秘訣であること、祈りの重要性を学びました。
★十字架の預言
・イエス様は、これから受ける苦しみの預言をなさいましたが、弟子たちには理解できませ
んでした。イエス様を信じていても、イエス様のおことばの深い意味をどれだけ理解しているだろうかと思わされました。
みことばを通して、いつも素晴らしい恵みを頂けることを感謝します。
皆様のご参加をお待ちしています。
日時:2024年4月21日(日)PM1:00~3:00
聖書の箇所:マルコによる福音書9章
テーマ
★イエス様の変貌
★悪霊に憑かれた息子のいやし
★十字架の預言
みことばに励まされる恵みを、共にわかちあいましょう
3月の恵みをご報告いたします。
★4千人の給食の奇跡
空腹な群衆を見て「かわいそうに」と思ってくださるイエス様は、私達の全てもご存知で、絶えず気にかけていて下さることを改めて感謝しました。
★盲人のいやし
両手を盲人の目に触れていやしてくださったイエス様は、身体に触れて下さっただけではなく、私たちの心にも触れて下さること、また、2度にわたって触れて下さったことを通して、私たちの霊的な目も、その時々にふさわしく、新たに霊の目を開かせて下さることを期待していきたいと思いました。
★ペテロの信仰告白
ペテロはイエス様を神のひとり子であると告白しましたが、イエス様の十字架を受け入れることができないという限界がありました。そのようなペテロも変えられていったことを通して、私たちも更に変えられていきたいと思わされました。
みことばを通して、いつも素晴らしい恵みを頂けることを感謝します。
皆様のご参加をお待ちしています
ずかることができたことを心から感謝いたします。
日時:2024年3月24日(日)PM1:00~3:00
聖書の箇所:マルコによる福音書8章
テーマ
★4千人の給食の奇跡
★盲人のいやし
★ペテロの信仰告白
みことばに励まされる恵みを、共にわかちあいましょう
2月の「みことばをわかちあう会 マルコ7章」も大変祝福されたときを過ごすことができました。
★神の戒めと人の言い伝え(7章1節~13節)
洗わない手でパンを食べることにとらわれているパリサイ人のあり方を見て、私達の信仰も形式主義に陥っていないか、反省させられました。
「人の心から出てくるものが人を汚す」という個所では、罪のリストの中で自分に該当するものは何かを話し合いました。
★スロ・フェニキヤの女の娘のいやし(24節~30節)
「子犬でさえパンくずを」という女のことばに、イエス様に対する絶対的信仰が現れているのではという意見が出ました。本来救いの対象ではない異邦人である私たちに福音が及んでいるのは、ただイエス様の十字架の故であることを、改めて感謝いたしました。
★耳が聞こえず口がきけない人のいやし(31節~37節)
耳が聞こえない人なので、イエス様はお声を発して癒されたのではなく、触れられて癒されたということに、「ひとりひとりにふさわしい方法」で癒してくださるイエス様の愛をおぼえました。
味わうごとに深くなるみことばの恵みにあずかることができたことを心から感謝いたします。
日時:2024年2月18日(日)PM1:00~3:00
聖書の箇所:マルコによる福音書7章 (第9回)
テーマ
★神の戒めと人の言い伝え
★スロ・フェニキヤの女の娘のいやし
★耳が聞こえず口のきけない人のいやし
みことばに励まされる恵みを、共にわかちあいましょう
1月の「みことばをわかちあう会」の恵みを、おわかちさせていただきます。
聖書の箇所は、マルコによる福音書6章30節~56節でした。
★5千人の給食
33節:弟子たちが寂しいところに行って休もうとしたのに、多くの人々が先回りをして、弟子たちを待ち構えていたという記述から、いかに群衆たちが、イエス様の教えに飢え渇いていたかがわかりました。
イエス様は、その群衆を見て、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれんだのは何故かと話し合いました。
当時の宗教指導者である律法学者やパリサイ人達の信仰は形骸化しており、本来の神のご意思からは遠く離れてしまっていたため、群集は、正しい導き手を失っていたのではないか。
イエス様はその状態を深く憐れんだのではないかという意見が出ました。
5千人に余る人々を飽き足らせ、更に、残りのパンが12のかごにいっぱいになるほどの奇跡をなさった「イエス様の権威」と、人々の具体的な空腹という必要を満たしてくださる「イエスさまの愛」を感じました。
イエス様の奇跡を見た群衆が、イエス様を王にしようとしたため、イエス様は、弟子たちを強いて船に乗り込ませ、群集を解散させたという記事から、イエス様のお弟子たちに対する深い配慮を感じました。
★湖の上を歩かれるイエス様
ひとり、祈るために山に行かれたイエス様が、弟子たちが向かい風のために船を漕ぎあぐねているのを見て、夜中の3時ごろ湖の上を歩かれて弟子たちに近づかれたという記事から、
「わたしは決してあなたを離れずあなたを捨てない」と約束してくださっているイエス様が、私たちとも常に共にいて下さるということをもう一度確認しました。
ゲネサレ後についたイエス様と弟子たちのところに、病人が集まり、イエス様の衣の端にでもさわった人々はみないやされたという個所では、サタンも不思議を行うので、悪霊とイエス様の霊とを区別しなければならないこと、今もサタンは働いていることを事実として受け止める必要があるのではないかということをわかちあいました。
分かち合いを通して、一人では気づかないことを知ることができ、大変感謝なときでした。
来月は、マルコの福音書7章です。
初めての方も大歓迎ですので、お気軽にご参加ください。
日時:2024年1月21日(日)PM1:00~3:00
聖書の箇所:マルコによる福音書6章後半 (第8回)
テーマ
★5千人の給食
★湖の上を歩くイエス
みことばに励まされる恵みを、共にわかちあいましょう
12月はクリスマス諸行事のため活動はお休みでしたので、11月の「みことばをわかちあう会」の恵みを、おわかちさせていただきます。
11月第3日曜日の礼拝後に、「みことばをわかちあう会」を持つことができました。
聖書の箇所は、マルコによる福音書6章で、内容が豊富だったので、「12弟子の派遣」を中心に学びました。
まず、1節~6節の教理におけるイエスの拒否の理由は、何だったのかという話になりました。
私たちは、「自分の知っていること」、いわゆる「常識の範囲内」でしか、物事を見ることができないからではないかという意見が出ました。
また、自分の常識で全能なる神を、小さく見過ぎてはいないか、これは無理だと最初からあきらめてしまってはいないかという反省の言葉も聞かれました。
同時に、自分のことをよく知っている家族伝道の難しさも話題に上がりました。
「12弟子の派遣」では、何故、2枚の下着を着てはいけないのか、1件の家にとどまらなければいけないのか」という問いが出ました。
昔のイスラエルの文化として、「下着を2枚着る」というのは、贅沢な人々の風習だったこと、また、「1件の家にとどまる」ということは、さらに良い待遇をしてくれる家を捜し歩いて渡り歩くなという意味合いがあるということでした。
一つの場所で、確実にその家に住んでいる人の魂を救いに導く努力をするようにという意味合いもあると思われます。
「足の裏の塵を払い落とす」とは、宣べ伝えても受け入れない魂には、私たちには責任がないということのしるしの行為であること、福音を受け入れるかどうかは、聖霊様のお働きによるのであって、私たちにゆだねられているのは、福音を宣べ伝えるという行為だけであること、結果は神様にゆだねればよいということも教えられました。
12人の弟子の伝道の効果が大きく、そのことがヘロデの耳にも入り、ヘロデは、イエス様を、自分が斬首したヨハネが生き返ったのだと恐れたという記録と、ヘロデによるヨハネの斬首の挿話が続きます。
ヘロデの愚かさと、私たちの中にもある、神を恐れない思いやおごりを、かえりみさせられました。
一人で読んでも気づかないたくさんのことに気づかされ、また、家族伝道の困難さなどを分かち合えたことは、大きな恵みでした。
次回は、6章の続きになります。またたくさんの恵みを受け取ることができることを期待しています。いつでもお声かけください。