2013年5・6月号『生きるということ』

『生きるということ』

 

生きる地図

知らない所へ行くときには、地図が必要です。私たちの悲喜こもごもの人生にも、地図が必要ではないでしょうか。

小学2年生の時、いじめに遭いました。お小遣いから文具の貢物をし、何とか機嫌を損ねないようにびくびくし、学校に行くのが嫌で仕方ありませんでした。そんな時、クリスチャンの母は、聖書を持って来て「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:34)」を読んでくれました。幼いながらも何か大きなものから優しく語られているようで肩の力が抜け安心感に包まれ学校に行くようになりました。その言葉の前には「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)」とあり、「だから、あすのための…」と続いています。これはイエス・キリストの言葉で、「神の国とその義とをまず第一に求める」とは、創造者なる神とともに生きることを人生の礎とすることの教えです。

 

あなたに逢ってから

先日、星野富弘さんの近刊『いのちより大切なもの』を読みました。星野さんは、大学ご卒業後、中学の体育教師となられ、生徒の前で模範演技をされたとき、大けがをされ、首から下が動かなくなりました。その中で、聖書を通し、創造者なる神を知られ、口で筆をくわえ、温かな花と詩を描かれるようになりました。

こんな詩が載っていました。「あなたに逢ってから 私は道の真ん中を 歩かなくなった 真ん中はあなた 私は少し横を歩きます」そして、こんな文章が記されていました。「私はたまたまこんな大けがをしましたが、だからといって私だけが特に大変だというわけではなく、人は皆それぞれ他人にはわからない苦しみや悲しみを抱えています。大切なのは、それをどう受け止めていくかということではないでしょうか。確かに、けがをして大変な思いをしました。人にもずいぶん迷惑をかけました。でも、何も起きずに順調に生きている自分を想像すると恐ろしくなります。教師としても、人間としても、何も知ってはいなかったからです。死の淵をさまよい、障害ゆえにできなくなったこともたくさんあります。でも、いのちより大切なものに気づくことができた。けがをしたおかげで、この人生はほんの少し得をしたかな…。

そう思っています。」

 

わたしとともに歩もう

私たちは偶然生まれ生き、偶然物事が起きているのではない、と聖書は告げます。創造者なる神が私たちをかけがえのないものとして造られ生かし、喜びの時も希望が見えない苦しみの時も導いておられる、と告げます。神は、私たちに優しくそして切実に語られています。「わたしはあなたを愛している わたしとともに歩もう わたしに帰ってきなさい」

神は、神から離れ罪のもとにある私たちに、二千年前ひとり子イエス・キリストを送られ、私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、私たちの罪を赦し、神に立ち返るいのちの道をご用意下さいました。「わたしにあって生きよ」と語られています。

夫婦や親子の歩み、仕事の重荷において一喜一憂し、右往左往します。でも、ここに歩む地図、帰る土台があります。「神に逢ってから 私は道の真ん中を 歩かなくなった 真ん中はあなた 私は少し横を歩きます」

この素晴らしい人生の祝福に生きたいと願います。

 

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