『天の御国は』 聖書箇所マタイ19:13~15

『天の御国は』

聖書箇所 マタイ19:13~15
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」
19:15 そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。

説教要旨
今日の箇所は、前回イエスを試すために離婚理由に関し尋ねたパリサイ人とは対照的に、子どもたちが主イエスの祝福を求めて連れて来られたことが記されています。(v13)子どもたちは、赤子や幼児であったようです。しかし、弟子たちは、彼らを叱りました。(v13)主イエスとの問答の途中であったためかもしれまません。子どもたちのことで手間取りエルサレムへの到着が遅れることを危惧したためかもしれません。いずれにせよ弟子たちは子どもを無価値と考えていたからでした。主イエスは仰せられました。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのようなものたちの国なのです。(v14)」主イエスは、子どもたちを天の御国(神の救い)に入る手本とされました。赤子や幼児は、親の愛を勝ち得ようと努力したりせず、親の愛や保護に依存し、親の愛のうちを自然に歩んでいます。神様の救いは、報酬ではなく、恵みです。獲得するものではなく、受け入れるものです。神が、イエス・キリストを通し、一方的に罪を赦し、救いに与らせて下さる恵みをただただ喜んで受け取るのです。

当時、この前に登場してきたパリサイ人において律法主義がはびこっていました。律法や諸規則を守る、立派に聖く汚れ一つなく生きる、生きることができる、それ故に神の前に正しいとされ、神の国に入ることができるとしていました。確かに表面上は、律法や規則を守っていたのかもしれません。しかし、人はうわべを見ますが、神は心をご覧になられます。十戒の最後に「あなたの隣人のものを、ほしがってはならない。(出エジプト記20:17)」とありますが、パリサイ人は、主イエスを妬んで試すために離婚理由の論争をしかけたのです。彼らは律法を守っていると誇っていましたが、それは真実に自分が見えていなかっただけでした。人は行ないによっては義と認められないのです。罪の重荷を負っているままで、イエス・キリストのもとへ行く時に罪赦され、救いに与るのです。信仰生活においても、キリストご自身に救いの確信を置いていくことの大切さを覚えます。罪を犯したり、同じような過ちを繰り返してしまったりすると、救いの確信が揺れ動きます。しかし、私たちの救いの確信は、イエス・キリストご自身です。イエス・キリストが私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架に架かって死んで下さった贖い、この一点により、キリストを信じ、罪赦されているのです。神の前に義と認められ、神の子どもとされているのです。その時、私たちは、こんな私が救われている、こんな私が神に受け入れられていると、湧き出るような喜びに満たされ、私たちの生活が造り変えられていくのです。

第二に、私たちは、ここでの弟子たちの姿を見ていきましょう。ここで弟子たちは、子どもたちを蔑む思い、裏を返せば、自分を誇る思いや弟子としての驕りがあったのです。私たちは、主イエスを信じ、聖められていきます。しかし、その聖めが、ともすれば高ぶりへと繋がり、自分以外の人への蔑みや非難へと繋がりかねないのです。そして、高ぶりは、根が深いものです。小さな者を受け入れる教えは、前の18章で、主イエスが弟子たちに懇切丁寧に教えられていたことでした。(18:4、5)真に聖められていくことは、自分を誇り、自分以外の他の人を蔑むことへとは繋がらず、低くなることです。いよいよ自らの罪深さを知り、いよいよ神の御憐れみ、イエス・キリストの十字架の贖いに拠り頼む幼子になっていくことであり、それ故に人に仕えていく歩みです。

神の国、救いは、神の一方的な憐れみ、イエス・キリストの十字架の贖いを、ただ喜んで受け取ることです。神の救いの恵みを心より感謝し喜び、神の愛に絶えず浸り、罪の増し加わるところには恵みも満ち溢れるとの中を歩み、いよいよ主と人の前に低くされ、謙遜にお仕えさせていただきましょう。