(敬老のお祝い)『日々新たに』 Ⅱコリント4:16~18

『日々新たに』(敬老のお祝い)


聖書箇所 Ⅱコリント4:16~18

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


説教要旨

「ですから、私たちは勇気を失いません。(v16)」パウロは 「落胆しない」と述べました。パウロは、苦しみを経験したことがなく、経験していない状況だったのでしょうか。いいえ。パウロは、多くの苦しみを経験し、また苦しみの中にいました。このⅡコリント書は、パウロが自分の苦しみと弱さを特に吐露しているように見えます。迫害(1:8~9)、使徒職を疑われた悪評(10:10)、「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし(11:27)」「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心遣いがあります(11:28)」「誰が弱くて、私が弱くないと言えるでしょうか(11:29)」「肉体に一つのとげを与えられました(12:7)」


苦しみと悲しみを抱えていたパウロが、「勇気を失わない」と告げたのは、「ですから(v16)」と、前の言葉を受けてのものでした。(4:7~15)パウロは、「私たちは、…土の器(v7)」と、もろく、弱いが、その「土の器(v7)」の中に、「この宝を(v7)」、すなわち、イエス・キリストを入れていると述べます。v7~v15は、キリストを心に迎え、罪赦され、永遠のいのちが与えられて生きる姿が示されております。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(v16)」「外なる人(v16)」とは、「私たちの肉体や精神」です。私たちの肉体は衰え、私たちの心も苦難や人間関係などで衰えます。でも、「内なる人(v16)」、キリストにある新しいいのちは、日々新たにされていくのです。能動形ではなく、「新たにされています(v16)」と受身形です。神が、イエス・キリストにより、私たちを日々、慰め、立ち上がらせ、力に満たし歩ませて下さるのです。


さらに、パウロは、勇気を失わない理由を告げます。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(v17)」キリストを信じ、神から日々力を与えられ歩んだとしても、死の前には無力ではないかと思うかもしれません。しかし、そうではありません。(4:14) (5:1~2)今の日々の艱難は、やがて、永遠の救いの栄光をもたらすのです。神は、キリストを死からよみがえらせたごとく、キリストにある私たちを死からよみがえらせ、神の御前に立たせて下さるのです。「今の時の軽い艱難(v17)」と述べます。それは、今の苦しみが、ただのひと時、軽いと言っているのではないでしょう。苦しみは、長く続きます。長いから苦しいとも言えます。そして、重いものです。でも、ひと時、そして、軽いと述べます。それは、重い永遠の栄光、天の御国の素晴らしさ故だったでしょう。神が、天の御国において、私たちとまみえ、私たちの目の涙をすっかり拭い去って下さるのです。 


パウロは、結論を述べます。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(v18)」パウロは、今の見えるもの、財、評価、健康、状況、人、それらが大事ではないと言っているのではないのですが、そこに目を留め、そこに望みを置き生きるのではなく、見えないもの、即ち、神がイエス・キリストにより確かに用意して下さっている天の御国の栄光に目を留め、望みを置き、今を生きていくと告げました。それは、見えるもの、この世の様々なものは、「一時的」であり、「変わるもの」であり、「衰退していくもの」ですが、天の御国は、とこしえに変わることなく、続くものだからです。


私たちの土の器に、悲しみの人で病を知り、十字架で苦しみの極みを受け死なれ、復活されたイエス・キリストが入って下さるのです。手には十字架で刺された釘の跡が残っていた復活されたイエス・キリストが入って下さるのです。イエス・キリストを、土の器である私たちの内にお迎えし、慰められ、立ち上がらせていただく日々を全うし、重い永遠の栄光、天の御国にお入れいただきたいと願います。