『主をほめたたえよ』 詩篇103:1~5

『主をほめたたえよ』

聖書箇所 詩篇103:1~5
103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

説教要旨
詩人は、自分の魂に向かって神をほめたたえよと促し(v1)、繰り返します。(v1~v2)そうすべき理由は、「主の良くしてくだったこと(v2)」と、神は恵み深い神であられるからです。v3~v5では、その「主の良くしてくださった(v2)」神の御恵みを列挙しております。第一は、「すべての咎を赦し(v3)」と、「罪の赦し」です。詩人は、自らの罪や咎を覚え、それをすべて赦して下さる神をたたえています。神様は、イエス・キリストの十字架の死と復活により、私たちの罪と咎をすべて赦して下さるのです。第二は、「すべての病をいやし(v3)」と、神様は、私たちの弱さや病を癒して下さるのです。それは、祈れば、すべての病気が癒されるということではありません。体の完全な癒しは、天の御国においてです。しかし、神様は、私たちの体をも愛をもって支え、導いて下さるのです。第三は、「いのちを穴から贖い(v4)」と、神様は、イエス・キリストの十字架と復活により、私たちを罪の滅びから救い、神との交わりを今与え、やがて天の御国へと迎え入れ、栄光の体に復活させて下さるのです。第四は、「恵みとあわれみの冠をかぶらせ、一生を良いもので満たされる(v4~v5)」神様は、天の父なる神として、私たちの一生を良いもので満たして下さるのです。それは、ご利益的な意味での良いもの、受けてすぐに嬉しいものとは限りません。真実の愛は、相手が傷つくかもしれないけれども、相手を真の意味で建たせるために、時に自分を犠牲にして、その時には喜ばしいと思えないものを与えることもあるでしょう。神様は、真に私たちをご存知で、真に私たちにとって善きものを与えて下さるのです。第五は、「あなたの若さは、わしのように、新しくなる(v5)」神様は、私たちを日々慰め、力づけ、新しく歩ませて下さるのです。(イザヤ40:30~31)

さて、ここで、詩人は、神様が良くして下さったことを顧みて、自分の魂に「主をほめたたえよ(v1)」と語りかけています。信仰生活は、神の御恵みを思い起こし、神に感謝する歩みです。イスラエルの民は、神の御恵みを思い起こすことを大切にしました。(v7)一日を顧みる、過ぎし週を顧みる、一年を顧みる。その時、神が共にあって下さったことをひしひしと覚えさせられるのです。また、この詩篇は、「あなたの一生を良いもので満たされる(v5)」「主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。(v17)」とも歌われ、神様が愛をもってお導き下さるとの明日への信頼の歌でもあるのです。いいえ。神の恵みを数え思い起こすことは、神への信頼へと導くということであるのでしょう。一年を振り返ります時に、不足やすべて益となるとは到底思えないことがあったでしょう。残されている課題があります。心に疼いている痛みがあります。v3~v5の御言葉を素直に受け入れられない魂であることを覚えます。しかし、今、ここにこうしてあることは、神の恵み以外何ものでもないのではないでしょうか。そして、今日までお導き下さった神は、愛をもって明日をもお導き下さるのです。

私たちは、ともすれば不足に目が行きがちです。苦しみに心が覆われてしまいます。祈りが嘆きに満ちます。嘆くことが悪いことではありません。神の御前では幼子のごとく嘆いてよいのです。嘆くべきなのです。しかし、それは信仰の半分の面です。私たちは、そこから信仰を働かせ、恵み深い神を見上げていきます。自分の魂にもっと語りかける必要があるでしょう。「私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(v2)」神は、私たちの罪を赦して下さった、私たちの肉体の弱さを支えて下さった、罪の滅びから贖い出して下さった、善きもので満たして下さった、日々、新たに慰めと力を与えて下さった、そして、今後もそのようにして下さる。神様に感謝を捧げ一年を閉じ、また神様への信頼と従順をもって新しい一年を迎えて参りたいと願います。