元旦礼拝 『私は目を上げ』 詩篇123:1~4

元旦礼拝

私は目を上げ

 

聖書箇所 詩篇12314

123:1 あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。

123:2 ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

123:3 私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。

123:4 私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。


説教要旨

新年あけましておめでとうございます。詩篇123篇は、イスラエルの民がバビロニア捕囚に連れていかれた先で、エルサレム帰還を待ち望歌ったものであるまたは、バビロニア捕囚から帰還し、神殿や城壁を再建した時に、近隣の諸国の民から激しい妨害に遭った時に歌ったものであると言われます。いずれにしても、詩人は「もういっぱいです(v3、v4)」と繰り返しており、「追い詰められた状況」「長い間、忍耐してきたが、もうにっちもさっちも行かない状態」の中での詩であったようです。


しかし、そのような中で、詩人は、絶望せず、諦めず、蔑む者たちの声に安易に聴くのでもなく、神に目を上げていきます。「あなたに向かって、私は目を上げます。(v1)」「目を上げる」とは、神様を待ち望むことを示しています。この姿勢は、次のv2からも見えてきます。当時の社会を背景としていますが、僕の目が主人の手に向けられるように、すなわち、僕が主人の手からひと時も目を離さないように、「私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(v2)」と歌っています。そして、その神を待ち望む信頼は、「あわれんでください(v3)」との祈りとなっております。私たちは、どうにもならないとき、自分の無力さ、弱さ、罪深さを覚えるとき、多くの言葉を発することはできないでしょう。ただ、「主よ。私をあわれんでください。」と祈ることしかできないでしょう。いいえ。そう祈ることができるのです。それは、神は、天地を造られ、すべ治め、そして私たちに憐れみ深いお方であられるからです。「天の御座に着いておられる方よ(v1)」神は、天地をお造りになられ、今、すべて御手の内に治めておられ万物の創造者、主権者であられます。そして、詩人は、「ご覧ください。(v2)」と訴えまた、「私たちの神、主(v2)」と呼んでいます創造者、主権者であられる神は、私たちをご覧下さるお方助けと指示を与えて下さる憐れみ深いお方であられるのです。神は、私たちの罪のために、御独り子イエス・キリストを与えイエス・キリストの十字架の故にすべての罪を赦し、神との交わりを与え、神の子どもとして下さったのです。天の父なる神は、私たちを神の子どもとし、目を留めて下さっておられるのです。神を待ち望む信頼に、憐れんでくださいとの祈りに、まことに善きものを、助けと導きを与えて下さるのです。そのようにして私たちは、罪赦され救いに与り、聖めに与り、また神様が下さる助けと導きの中で、苦しみの中で希望を抱いて歩んでいくことができるのです。神様が、本当に善き導きを、天の御国へとつながる祝福を与えて下さるからです。


そして、神の憐れみの御業は、私が神に目を上げるところから始まり広げられていくのです。「あなたに向かって、私は目を上げます。(v1)」と「私は(v1)」と単数形となってますが、2節以降では「私たち」と複数形となってます。私たちは、キリストの体なる教会の中で歩んでいます。また、夫婦、親子、家庭の中、職場、地域の中で歩んでいます。そして、守谷聖書教会は、守谷の地の中に建てられています。この私が神に目を上げることが、私たちが神に目を上げることに繋がっていくのです。私が苦しみの中で目を上げることが、私たちを憐れんでくださいとの共同体の祈りへとなっていくのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)」今、私たちが属している共同体に苦しみ痛みがあるかもしれません。しかし、その中で私が神に目を上げ、神の憐れみを祈り、神の憐れみに生かされる時、私たちの共同体に神の憐れみの御業天の御国が広げられていくのです。


まずこの私が神に目を上げ、憐れんで下さいと祈り、私たちへと神の憐れみが広がっていくことを待ち望みましょうの目が一心に主人の手に向けられるごとく、一心に憐れみ深い神に目を上げ、神の憐れみに生かされ、神のご栄光を現わしていく歩みへと導かれて参りましょう。