『主がお入用なのです』
聖書箇所 マタイ21:1~11
21:1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
21:6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。
21:7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
21:8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
21:10 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
21:11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。
説教要旨
2015年、年間聖句は「主がお入用なのです(マタイ21:3)」、年間標語は「教会の歩みを祈り求める」です。昨年は、教会を建て上げる基本的な考え(理念)を検討して参りましたが、今年は、その考えに基づいて、神がお用い下さるとの視点と信頼に立って、教会の具体的取り組みを共に祈り求めて参りたいと願っています。この箇所は、主イエスが私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり、神の贖いの業を成し遂げられるためにエルサレムに入られたことが記されています。主イエスは、ろばの子に乗って、エルサレムに入城されました。それは、主イエスが力によってローマ支配から解放する政治的王ではなく、神と人に仕えご自身のいのちをお与えになる罪からの救い主であることを示していました。(マタイ20:28)「見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。(v5)」主イエスは、私を罪から救う私の王であり、私のところに来られているのです。主イエスを心にお迎えし、信頼し、お従いしていくとき、罪赦され、永遠のいのちの恵みに新しく生かされていくことができるのです。神様から離れ歩む。その歩みは、どんなに力、栄誉、財を得たとしても、罪の暗闇の中です。しかし、主イエスを心にお迎えし、神とともに歩んでいく歩みは、どんなに苦しみの中を通らされても、神様の祝福の道が用意されていくのです。
さて、主イエスは、ご自身の救いの働きのために、力ある足の速い馬ではなく、ろばの子を用いられました。主イエスは、ご自身の救いの御業のために、立派な者、力強き者、何の問題もない者ではなく、弱き者、力なき者、悩む者をお用い下さるのです。この年は、教会の具体的取り組み(歩み)を祈り求めていきます。でも、そこで見失ってしまってはならないことは、「主がお入用なのです(v3)」ということです。私たちの知恵や力で何かをなしていくのではありません。それが先行してしまうと教会や私たちの歩みは、ギクシャクしてしまうでしょう。主イエスは、すでにご聖霊によりこの地において、私たちの持ち場においてお働きを進めておられるのです。私たちはその業に参与していくのです。ですから、慌てることなく、力むことなく、何かを直ぐに始めるのでもなく、主の御心を祈り求めて、そこに見えてくる主のお働きに従順に従って参りたいと願います。
そして、主イエスは、ご自身の働きを愛の交わりの中でなされるのです。ろばに乗られて、エルサレムに入られたことは、他の福音書も記しております。しかし、他の福音書は、いずれも「ろばの子」に乗られて一頭のことが記されています。しかし、マタイは、ろばの子とその親を記しています。そして、20:29節以降、二人ということが続いています。「ふたりの盲人(マルコ、ルカでは一人)」「弟子たちをふたりを使いに送る」そして「ろばとろばの子」です。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:20)」主イエスは、ご自身の御業をなす時に、ご自身の教会をお用い下さるのです。教会の愛の交わりの中に、大切な一人ひとりを加えていく形で、主のお働きを進めて下さるのです。また、教会の兄弟姉妹と祈り祈られる交わりの中で、私たちがそれぞれの持ち場に遣わされ務めをなしていくのです。私たちが力強く信仰生活を歩むために大切なことは、規則正しく聖書を読むこと、祈ること、そして礼拝をはじめ、聖徒の交わりです。
主イエスは、「主がお入り用なのです(v3)」と語りかけておられます。私たち教会が互いに仕え合う愛の交わりを祈り求め主に用いていただき、また、祈り祈られそれぞれの持ち場で主に用いていただきましょう。教会の歩みにおいて、そして、私たち一人ひとりの歩みにおいて、「主よ、もしお入り用でしたら、私たちを用いてください」との内なる祈りを一年間心に持ち続け、自らを日々主イエスにお捧げして参りたいと願います。