2015年春号『あなたは愛されている』

 

四つの0(ゼロ)

「心の居場所がない」「自尊感情がない」「人生の目標がない」「他者から必要とされていない」

少年審判で多くの非行少年に接してきた元裁判官井垣康弘氏は、非行少年には上記の四つの共通点があるように見えると述べておられます。この四つの「ない」がそろったとき、つまり四つのゼロ状態に置かれると、少年は非行に走り易くなるというのです。

そして、「しかし」とつなげます。しかし、実際には非行に至るのはごくわずかで、はるかに多くの子どもが自分で自分の命を奪ってしまうというのです。(東京新聞、2015年3月28日「考える広場」)

 

僕は、僕でいいの?

思わず「うーん」と、うなってしまいました。息子が四歳くらいの時だったでしょうか、成長に遅れがあると分かった息子を、他の子の成長に何とか追いついてほしいと、必死になって、言葉と力で変えようとし続けたことがありました。

しかし、ある時、彼の写った写真を見て愕然としました。笑っていないのです。笑顔を失っていたのです。「僕は、僕でいいの?」と語りかけられているような思いがしました。

 

神が、私を愛しておられる

キリスト教信仰の中心は、「神が、私を愛しておられる」ということです。

聖書によれば、神は、私たちの命の造り主であられますが、私たちは神に感謝することも従うこともせず、自分を中心として歩んでいます。その結果、自分の存在の価値と目的が分からず、愛すべき人を愛せず赦せず怒り、心が罪に支配されています。神は、そんな罪の中にある私たちを愛し、ご自分の独り子イエス・キリストをこの世に下さり、私たちの罪の身代わりに十字架につけられました。罪の内に滅ぶべき者を愛する神の真実の愛が、私に個人的に向けられているのです。

イエス・キリストを心に迎えるとき、神に立ち返り、神との交わりが回復し、神の愛に包まれ、孤独や空しさ、そして罪の力から徐々に解放され、生きる喜びが与えられていくのです。

 

真に満たす愛

母親の愛情にすっぽりと包まれて上機嫌の赤ん坊を見ているのは楽しいもので、こちらのほっぺたも自然に緩んできます。私たちも、かつてはあのような、すっぽりと包み込むような愛情の中にいたのです。

けれども、私たちは、いつまでもそのような愛情に包み込まれているわけにはいきません。私たちの人格は成長し、入り組んだものとなり、親にも包み込めないものとなります。そして、私たちは、独立した人格として人生の独り歩きを始めます。その独り歩きの中で、私たちは色々な愛情に巡り合います。友情、恋愛、結婚。けれども、それらはどれほど素晴らしい愛情でも、私という人間全体をすっぽりと包み込めるものではありません。いいえ、そのような愛を人に求めるならば、その関係はいつか破たんしてしまうでしょう。

神の愛だけが、私たちをすっぽり包み込める愛なのです。神の愛こそ、私を真に満たす愛なのです。

 

5月17日(日)吉持章牧師を迎え、特別集会を行います。聖書を通し、神の愛につながる喜びをご一緒に覚えることができたら幸いです。

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