聖書メッセージ(マタイ26:57~66)『絶望の中に』

『絶望の中に』


聖書箇所 マタイ26:57~66

27:57 夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。

27:58 この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。

27:59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、

27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。

27:61 そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。

27:62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、

27:63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。

27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」

27:65 ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」と彼らに言った。

27:66 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。


説教要旨

主イエスが十字架で死なれ、安息日に入る前にアリマタヤのヨセフという人物が、主イエスの亡骸を引き取りにピラトの所に来ました。彼は、ユダヤの最高議会サンヘドリンの有力な議員でしたが、主イエスを捕え死刑に定めることには同意せず(ルカ23:50~51)、しかし、主イエスの弟子であることを隠し、サンヘドリンの計画や行動に積極的に反対することはありませんでした。(ヨハネ19:38)「きれいな亜麻布」「自分の新しい墓」そこに、アリマタヤのヨセフの主イエスに対する深い愛を見るのです。しかし、それはまた、ユダヤ人を恐れ、主イエスの弟子であることを公にできず、積極的にサンヘドリン議会に反対しなかったことを深く悔やむ後悔をも見るのではないでしょうか。彼は、失意と深い後悔を抱いて帰ったことでしょう。また、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いて座っていました。(v61)彼女たちは、主イエスを慕い、ガリラヤからエルサレムについてきた女性たちでした。しかし、主イエスを十字架で失ったのです。彼女たちは、墓を去り難かったのでしょう。それほど主イエスを愛していたのでしょう。「すわっていた(v61)」というのは、彼女たちの深い悲しみや失望が表れているでしょう。(4:16、9:9)


一方、ユダヤ当局は、主イエスが十字架で死なれる前に、三日後によみがえると告げていたことを思い出し、主イエスの弟子たちが亡骸を盗み、復活したと言いふらすことを恐れ、総督ピラトに番兵をつけ、墓の番をするよう願い出ました。しかし、それは、彼らの杞憂でした。(v62~v66)弟子たちは、そんな思いが微塵もありませんでした。彼らは、ユダヤ当局を恐れ、エルサレムの一つ部屋に戸を堅く閉め隠れていたのです。主イエスを裏切ってしまった嘆きとユダヤ当局への恐れの中にいました。「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。(v66)」これですべてが終わりに見えました。しかし、ここが終わりの始まりでした。十字架の死と埋葬は、主イエスも、世の罪の力、そして死の力に無力であられたかのように映りました。墓に立てかけられ、封印された石は、人は罪と死に対しては全く無力の存在の徴のように見えます。しかし、その絶望の向こうに、神は、イエス・キリストを死から復活させられたのです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに神に裁かれ死なれましたが、罪と死に打ち勝ち、復活されたのです。いいえ、絶望の中に、後悔、失意・悲しみ、自分の罪深さへの嘆き、恐れの只中に、確かにイエス・キリストはともにおられるのです。主イエスは、死に勝利され、私たちを天の御国へ導いて下さるのです。「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。(マタイ28:2)」その石はとりのけられ、神の御使いが、石の上に座っていたのです。


恐れの石、失望の石を前にし、しかし、なお、神を待ち望んでいくことを私たちに静かに教えているのではないでしょうか。イエス・キリストにあって死は決して絶望ではないことを私たちに告げているのではないでしょうか。私たちは、日々の歩みにおいて、「墓のほうを向いて座っていた」とあるように、失望、恐れ、失意、後悔、そんな思いになります。しかし、どんなに大きな墓石も、神が許して下さるならば、それが取りのけられます。世の患難と死は、神の愛に打ち勝つことはできません。主イエスは仰せられています。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」絶望の墓石は取りのけられ、天使たちが、その上に座ったのです。世の苦しみと死は、神の希望を上回ることはありません。生きたもう神を待ち望み続けたいと願います。神はおられるのです。イエス・キリストは生きてともにおられるのです。イエス・キリストは、私たちを天の御国に導き入れて下さるのです。