聖書メッセージ(Ⅰコリント15:1~4、12~28)『復活の希望』

『復活の希望』


聖書箇所 Ⅰコリント15:1~4、12~28

15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、


15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。

15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。

15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。

15:27 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。

15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。


説教要旨

本日礼拝式後には、故工藤姉の納骨式が行われます。パウロは、この手紙の終わりにあたり「福音」「神の良き知らせ」とは、一体何かということを確認しました。パウロが、最も大切なこととして伝え、パウロ自身が受けた福音とは、イエス・キリストの十字架の死と復活です。(v3、v4)キリストは、私たちの罪のために死なれました。葬りは、死の確実性を表しました。そして、キリストの復活は、キリストの十字架の死が確かに私たち人間の罪を贖うための神の救いの計画であることの保証です。そして、キリストの復活は、私たちの復活をもたらす救いの出来事、希望の出来事です。


当時、コリント教会の人々の中には、キリストの復活は信じつつも、「死者の復活(v12)」、即ち、自分たちの復活はないと考えている者がありました。パウロは、もしキリストが復活されなかったのなら、どんな重大事になるかを語り(v14~v19)、そして、これらの恐るべき想定を打ち切り、キリストの復活は真実であり、従って私たちの復活も事実であることを述べました。(v20~v22)ひとりの人、アダムが神に背いたことにより、私たち人間に「死」即ち「造り主なる神との関係を失った霊的な死」「肉体の死」「永遠の死」が入ったように、キリストが死に打ち勝ち、復活されたことにより、私たちは、キリストを信じ、罪赦され、神との交わりのある新しいいのち、天の御国へと導かれる永遠のいのちが与えられるのです。私たちは、この地上での歩みが全てではありません。この地上での歩みを旅人であり、寄留者として歩みます。私たちの永遠の住まいは、天の御国です。そして、キリストのご再臨の時に、私たちの体はよみがえり、私たちの最後の敵である死も滅ぼされ、天の御国が完成するのです。


さて、パウロは、ここまで死者の復活、天の御国の希望を詳細に述べてきましたが、それは、次の一事にかかっているかのようにして、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。(v58)」と呼びかけ、結論を述べます。「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。(v58)」キリストの十字架の死と復活を中心とする福音に堅く立って、また、天の御国の希望に堅く立って、今、「主のわざに励むよう」述べました。「主のわざ(v58)」とは、神の素晴らしさを現わすことでしょう。(6:20、9:31)伝道の働き、教会における一つひとつの奉仕、祈り、さらには「食べるにも、飲むにも」とありますが、私たちの日常の歩み、働き、学び全てにおいて、神を愛し、隣人を愛し、神の栄光を現わすことです。自分の内には様々な弱さや罪汚れがあります。でも、神は、それをイエス・キリストの十字架により聖め、「主のわざ(v58)」と仰せ下さるのではないでしょうか。それに励むよう、告げています。「あなたがたは自分たちの労苦が主にあってむだでないことを知っているのですから。(v58)」この世では報いられるわざも報いられないわざもあります。労苦のみ多く実りの少ないわざもあります。そして、世の中では、実りや量や結果によって判断されます。しかし、神は実りだけではなく、いいえ、実りよりも、主のわざに励む忠実さに豊かに報いて下さるのです。天の御国において、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と御声をかけて下さるのです。(マタイ25:14~30)


本日は、故工藤姉の納骨式が行われます。工藤姉は、天の御国を確かに仰ぎ見ておられ、この地上での歩みを一日一日精一杯主のわざに励まれました。その精一杯さは、自分の罪のために十字架に架かり死なれ、復活され、罪を赦し、新しい命を与え人生を歩ませて下さっているイエス・キリストへの深い愛と感謝が根底にあられのです。私たちも、天の御国の確かな望みを抱き、今、置かれているその所で主の業に精一杯、忠実に励んでいきたいと願います。私たちの欠けや弱さをも聖めて「主のわざ(v58)」と仰せ下さる主なる神がちゃんと天の御国において報いてくださるからです。