聖書メッセージ(ヨハネ1:9)『まことの光』

『まことの光』

聖書箇所 ヨハネ1:9
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

説教要旨
聖書は、キリストの誕生を「来た」と述べます。「来た」という表現は、使命感と目的を強く表しているでしょう。何故、イエス・キリストは、来て下さったのでしょうか。ここで、ヨハネは、イエス・キリストを「まことの光」とし、その「まことの光」が「世に」「来た」と告げました。第一に「世に」とあります。聖書は、この世界そして私たち一人ひとりは神に造られた素晴らしいものであると告げます。神を礼拝し、神の素晴らしさを現わすものとして造られたのです。と同時に、この世界は、罪の暗闇に覆われていると告げます。光がないと告げます。権力者がいよいよ栄え、力なき者がいよいよ苦しんでいます。70年間守られてきた平和が崩される手前にあるようにも思います。また、自分自身を見つめてみる時に、まさに罪の暗闇に覆われているのではないでしょうか。拭えない寂しさ、生きる目的が分からない、人を赦せないまた人に赦されない苦しみ、妬み、怒り、保身、汚れ…。その暗闇の根は、人が造り主なる神に背き、神から離れているからです。神と私たちとの間には罪による隔てがあるのです。私たちは息をして生きていますが罪の中に死んでいるのです。そして、神は、聖なる義なるお方であられ、罪を憎まれ、私たちは、罪の故に、終わりの日に、神に裁かれ、全く見捨てられるべきものなのです。

しかし、神は、そんな私たちを愛し、罪から何とか救い出そうと神の独り子イエス・キリストを与えて下さいました。第二に「来た」です。神であるお方が極めて低く人としてこの地に来られたのです。主イエスは「人を照らすまことの光(v9)」です。どのようにして私たちの罪の暗闇を照らして下さるのでしょうか。私たちの罪の身代わりに十字架に架かり死んで下さることによってです。主イエスは、神と私たちを隔てている罪を取り除いて下さるのです。キリストは、十字架で死なれ、私たちを罪から救うために来て下さったのです。それがクリスマスの出来事です。キリストを信じる者は、罪赦され、神と和解し、永遠のいのちが与えられます。快適な道が約束されるというのではありません。試練が起こらないということではありません。全く失敗がないということでもありません。しかし、その苦しみや弱さの中で、いよいよ自分の罪深さを覚え、いよいよ闇の中に輝いているイエス・キリスト(v5)に拠り頼み、闇の中に留まることなく、神の光の中を歩んでいくことができるのです。

第三に、「すべての人を照らす」と約束されています。「すべて(v9)」には、「私」が含まれています。今まで誰にも打ち明けられなかった悲しみ、自分の心の奥にある罪の苦しみ、死と死後に対する恐れ、しかし、キリストは、その暗闇を照らして下さいます。羊飼いと東方の博士は、キリストに出会い、照らされ、神を賛美し、神の御言葉に生きる者となりました。ヘロデ王は、キリストを拒み、ますます恐れと罪の中に生きていきました。どんなに闇深くても、キリストに照らすことが出来ない闇はありません。神の栄光をかなぐり捨て貧しく人となられ、人々に蔑まれ、苦しみの極みを味わわれ、十字架で死なれ、それに打ち勝ち復活された神の独り子イエス・キリストは、私の暗闇を照らすまことの光です。新聖歌188番『救い主は待っておられる』「1・救い主は待っておられる お迎えしなさい こころをさだめ今すぐ 主にこたえなさい 今まで主は待たれた 今も主はあなたが こころの戸を開くのを 待っておられる 2・ ひとあし主に近づくなら 受けてくださる こころのやみは消え去り 愛が湧き出る 今まで主は待たれた 今も主はあなたが こころの戸を開くのを 待っておられる 」

まことの光イエス・キリストは、すでに私たちの上に照っておられるのです。私たちが心の戸を開くのを待っておられるのです。イエス・キリストを心に迎え入れ、罪赦され、永遠のいのちを賜り、闇の中に留まることなく、新しく光の中を歩ませていただきましょう!