『主ご自身が』
聖書箇所 Ⅰテサロニケ3:11~13
3:11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。
3:12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。
3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。
説教要旨
2016年、年間聖句はⅠテサロニケ3:12、年間標語は昨年に続き「教会の歩みを祈り求める」です。パウロは、誕生したばかりにもかかわらず迫害の中に置かれた教会のために昼夜祈りました。(v10)パウロがなしたその祈りの言葉が、本日の御言葉です。第一の祈りは、テサロニケ教会の信仰の励ましのために神が道を開き行かせて下さるようにとの祈りでした。(v11)パウロは、牧会のために祈ったのです。私たちは、日々の具体的必要のために祈るだけではなく、牧会的な祈りが必要です。人は罪から救われなければなりません。信仰者は信仰に堅く立たなければなりません。そのために執り成し祈るのです。祈りの中で、人は罪から救われ、信仰者は成長し、教会は建て上げられ、神のお働きが進められていくのです。家族や友の罪からの救い、教会の兄弟姉妹の信仰の励ましを粘り強く祈っていく、そこに神の御業が進められていくのです。第二の祈りは、教会の相互の愛とすべての人に対する愛を増させて下さるようにとの祈りでした。(v12)神は、私たちをキリストの救いへと導き、キリストに連なる者とされただけではなく、キリストの御体なる教会の一員とされました。教会を共に建て上げていくことが、神の御旨です。そして、キリストの教会が建て上げられていくにあたり大切なことは、愛、互いに仕え合っていくことです。また、相互の愛は開かれ、広げられていくものです。まだ神を知らない人、生きる目的が分からず苦しんでいる人、罪の中に伏せている人への愛です。宣教の働きの土台は、愛です。相互の愛とすべての人への愛は、限りはなく、ますます増し溢れていくことを求めていくものです。(4:9~10)第三の祈りは、聖められるようにとの祈りでした。(v13)この手紙は、キリストのご再臨が繰り返し記されています。終わりの日があるのです。天の御国があるのです。神の御前に立つのです。神の御前に立ち天の御国に与る者として聖く歩んでいくのです。(Ⅱテサロニケ1:5)聖めの完成は、キリストが再び来られる時、天の御国においてです。確かに私たちは罪赦された罪人に過ぎません。でも、その言葉を隠れ蓑にして、罪を犯しても仕方がないと安易にしてはならず、悪習慣のままに留まっていてはなりません。神の御前に立つことを覚え、神を畏れ、神の聖さを求めていきます。そして、パウロは、「聖め」を「愛」に続いて祈りました。聖さを求めていくときに、そうでないように見える人を心の内で容易に非難しがちになります。聖くせられていくことは、ますます「愛」「仕えていくこと」であるのです。
パウロは、そのように祈りました。そして、パウロがそもそもテサロニケ教会に行きたいと願ったのは、ますますテサロニケ教会が相互の愛とすべての人への愛に溢れて歩むため、また神の聖さに似せられて歩むためでした。今の彼らの信仰と愛を否定しているのではなく、「ますます(4:1、10)」、そこにパウロのテサロニケ教会への思いが、いいえ、神のテサロニケ教会への思いがあったのです。そして、私たち守谷聖書教会と一人ひとりへの神の思いがそこにあるのではないしょうか。さて、この「愛」と「聖め」に関し、パウロは、勧告でなく、神に祈りました。それは「父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身(v11)」によるものだったからです。ご聖霊は、私たちを聖めようと働いておられます。(4:7~8)真実な神は、必ずやそのことをなして下さいます。(5:24)信仰は神への信頼です。神がそうして下さるとの信頼をもって求めていくことです。
私たち教会と一人ひとりが互いに愛し合い、この地域の人々を愛し福音を伝え福音に生きていくことがますます増し溢れるように、また聖められ神の御心とますます一つとせられていくように祈り求めて参りましょう。それを土台として教会の姿と自分自身の姿を祈り求めて参りましょう。神に期待し、神への信頼を深め、神のご栄光を現わしていきましょう!