聖書メッセージ(ヤコブ4:1~6)『世を愛する高ぶり』

『世を愛する高ぶり』

聖書箇所 ヤコブ4:1~6
4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
4:2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
4:5 それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。
4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

説教要旨
4章に入り、ヤコブは、3章に続いて「教会の交わり」を念頭に置きつつ、「高ぶり」に関し記していきます。今日は「世を愛する高ぶり」を見て参ります。ヤコブは、疑問形を用いて、争いの原因を追及します。(v1)争いの痛みがあったのでしょう。3章の「舌」との兼ね合いで考えるならば、口論や中傷や陰口があったのでしょう。何故、教会の交わり、また延いては家庭などの共同体において争いがあるのか、その源は、崇高な理由によるものではなく、結局は、一人ひとりの内にある欲望(快楽)のためであると告げます。称賛や富を一心に求める、でも、手に入らないと憎らしく思い、妬み、その結果、争うのです。

ヤコブは、称賛や富が備えられないのは、神に祈らないから、神ご自身を求めないからというのです。(v2)また、仮に願ったとしても、自分の欲が満たされるという「悪い動機で(v3)」であるためです。ヤコブは、そのように歩む者たちに「貞操のない人たち(v4)」と辛辣な言葉で呼びかけます。直訳は「姦淫する妻たち」です。旧約聖書において、神とイスラエルの民の関係は、夫婦の関係に例えられました。イスラエルの民が神以外の神々や物に心寄せていくときに、霊的に姦淫の罪を犯しているとされました。称賛や富そのものが悪いものではありません。神以上に称賛や富に望みを置き、頼りとし、追い求めることを否定しているのです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)」神を愛するよりも世のものに望みを置き、心を寄せていくことは、神は望まれません。何故でしょうか?神は、イエス・キリストを信じた私たちの内にご聖霊を住まわせ、そのご聖霊を、ご聖霊において与えられる私たちとの親しい交わりを、私たち自身を一心に愛して下さっておられるからです。(v5)

しかし、私たちは、そのことが分かっているのですが、現実の歩みの只中で、どうしても神ご自身よりも、目に見える称賛や富へと心が向いてしまいます。そして思うように得られないと、ひどく落ち込み、憎しみや妬みを抱き、争いの中に歩んでしまいます。まさに、1節にあるように「からだの中で戦う欲望が」あるのです。どうすることもできないのです。しかし、神は、その戦いの中にある者たちに、「さらに豊かな恵みを与えてくださいます。(v6)」すなわち、神は、神以外に心を向けてしまう私たちを憐れみ、悔い改めへと導き、その罪を赦し、罪に傾く性質に打ち勝つ力を与え、その現実の只中で、神の御前に生きる者とし、神の祝福と平和の中を歩ませて下さるのです。神は、私たちの弱さを越えて「さらに豊かな恵み(v6)」を与えて下さるのです。その神の御恵みを受けることにおいて大切なことは何でしょうか?「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(v6)」神の前に謙る謙遜さです。神の御恵みが本当に自分に必要として求め、喜んで受け入れる謙りです。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。(ルカ18:13)」との祈りです。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決して、そこにはいることはできません。(ルカ18:17)」これ以上でも、これ以下でもありません。

争いの源は、突き詰める所、私たちの内側の快楽、すなわち神以上に称賛や富を愛する神への高ぶりです。しかし、神は、そのような私たちに、さらに豊かな恵みを与え、悔い改めへと導き、罪を赦し、罪の力から聖め、神の御下へと導き、真の祝福の内に歩ませて下さいます。ですから、私たちの体の中で戦う欲望に弱いことを認め、日々、神の御恵みの前に謙り、拠り頼みましょう。そして、神の前に自分を置き、神を愛し、神を第一に求め、神の祝福の内を歩んでいきましょう。自分の悟りに頼らず、勇気をもって神に信頼していく歩みへと歩み出しましょう。神の祝福がその後に追ってくるのです。