聖書メッセージ(ヤコブ4:11~12)『隣人をさばく高ぶり』

『隣人をさばく高ぶり』

聖書箇所 ヤコブ4:11~12
4:11 兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。
4:12 律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。
 
 説教要旨
「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。(v11)」「悪口(v11)」という言葉は、見下す言葉、非難の言葉を表しています。「悪口を言い合う」とは、顔と顔とを合わせ激しく言い合うことをイメージするかもしれませんが、中傷や陰口を主に表しています。(レビ19:16参照)また、言葉で出なくとも、心の内で「裁き合う」こともあったのでしょう。但し、聖書は、一切の「裁く」ことを否定しているのではありません。「正しい裁き」と「誤った裁き」があるのです。私たちは、人を戒めることが、自分を傷つけたくない故に、できない弱さがあるでしょう。また、戒められた時に、容易に「裁かれた」と聴く耳を持たず成長や神様の祝福を逸してしまう弱さがあるでしょう。「正しい裁き」とは、神が私たちを良く知られ、キリストにおいて私たちの弱さを共に痛まれ、その人を真に立たせるために裁かれるように、相手を良く知り、相手の弱さを共に痛みながら、相手を打ち負かすためではなく、相手を建てるためのものです。戒めは、相手を中心として、相手よりも自分が低くなって、共に痛みを覚えつつ伝える言葉ですが、中傷や陰口は、自分を中心として、相手よりも自分が高くなって、自分が痛むことなく、相手を打ち負かす無責任な言葉です。そのような戒めが少ない一方で、中傷や陰口は、いとも簡単に口から出ます。サタンは、信仰者を神から引き離し、また、神の教会の交わりを壊そうと巧妙に働きかけます。(v7)悪口を言い合ってはならないと告げますが、悪口・陰口・中傷・裁きは、連鎖を生みます。それを耳にした第三者は、陰口の言葉が自分の腹の奥に下り、聴いた人のことをそうとしか見られないようになるでしょう。(箴言18:8)また、それを耳にした本人は、深く悲しみ、言った相手を赦せないとし、相手のあら探しを始め、今度は自分が陰口をたたくようになるでしょう。そうしていがみ合い、宣教の力を失い、サタンの巧妙な働きに乗せられてしまうのです。

ヤコブは、悪口を言い兄弟を裁く時の、魂の状態を述べます。(v11、v12)悪口を言い裁くことは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」との律法を軽んじていることであり、律法の下に自らを置くのではなく、律法の上に自らを置き、律法の実践者ではなく、審判者となっているのです。私たちは審判者ではなく、神のみが私たちの審判者です。即ち、悪口を言い裁く時の私たちの魂の状態は、自分が神の立場に立っているのです。あなたがたは、人ではないか、神の前に一方的に罪赦された罪人ではないか、神の前に謙りなさいと招いているのです。

そういう意味で、前節が胸に響きます。「主の御前でへりくだりなさい。(v10)」主の御前に謙るのです。神の御恵みなくしては、神の御心に生きることができない弱さと罪深さとを認め、神の恵みであるキリストに拠り頼むのです。より頼み続けるのです。「そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(v10)」主ご自身が、私たちの歩みを導き、祝福して下さる、決して自分ではなしえなかった魂の内なる変化がもたらされていくのです。人に仕え、語るべき言葉を語り、語らなくてよい言葉を黙し、聴くべき言葉を聴き、悪に対し悪で応えず、神と人に信頼され、神の御用のために歩む者へといよいよ引き上げられていくのです。そして、主の教会と私たちが置かれた所での交わりが一人ひとりが受け入れられているとの愛と肯定そして罪に対する戒めの中で成長していくことができるのです。

本当に弱き愚かな者です。しかし、この朝、その私たちのために、救い主イエス・キリストは、「わたしを食べなさい」と聖餐の恵みへと招かれ、私たちが信仰をもって聖餐に与る時、私たちをお養い下さいます。今自分の弱さを覚えるからこそ、今自分の心に痛みと戦いを覚えるからこそ、神の御恵み、救い主イエス・キリストに拠り頼み、神の高くして下さる祝福の内を歩み、神の御心に生き、神のご栄光を現わして参りましょう。