『真実を語る』
聖書箇所 ヤコブ5:12
5:12 私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。
説教要旨
7節からは、私たちの地上での生涯を終え、又は主イエスが再臨なされ、神の御前に立つ時の備えとしての教えであり、この「誓わないようにしなさい。(v12)」もその教えの一つです。主イエスも山上の説教で「決して誓ってはいけません。(マタイ5:34)」と仰せられました。ヤコブは、誓約することを一切否定しているのでしょうか?聖書全体は、誓いを禁じていません。(申命記23:21、23、マタイ26:63~64、Ⅱコリント1:23参照)では、なぜ、ヤコブは「誓わないようにしなさい。(v12)」しかも「何よりもまず(v12)」と強調して教えたのでしょうか。これには、当時の人々の状況を見る必要があります。当時、ユダヤ人は、誓約が形骸化していました。自分の言葉に真実感を帯びさせるために、日常の歩みの中で、「神にかけて」「神殿にかけて」と言って誓い、自分の言葉の真実性を担保していました。見方を変えるならば、真実な言葉が語られず、真実な言葉として受け入れられていなかったのです。偽りが語られ、不信の中で人の言葉が聞かれていたのです。ヤコブが告げていることは「言葉における誠実さ」です。「ただ、『はい。』を『はい。』、『いいえ。』を『いいえ。』としなさい。(v12)」そして、そうした歩みの土台は、「それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。(v12)」とあるように、神への畏れです。私たちは、神の御心に反し、人を欺くことがあってはなりません。いいえ。故意に人を欺くことは、多くないのかもしれません。しかし、自分の都合が良い面だけを誇張して言ったり、相手の言った言葉を少し曲げて人に伝えたり、「みんな」「いつも」「絶対」という言葉を用いて自分の主張を通すために一部嘘を混ぜたりすることがあるのではないでしょうか。そして、ヤコブは、教会の交わりを特に覚えて教えているでしょう。(5:14、5:19~20)教会の交わりにおいて大切なことは、言葉を大切にすることです。偽りや噂や中傷は、主イエスの御体なる教会を崩すことになりかねないのです。サタンは、不信ということを用いて、主イエスの御体なる教会を崩そうとします。(使徒5:1~11)真実が語られず、語られた言葉の裏を読むようになる時に、主イエスの御体なる教会は建て上げられていきません。パウロも教えております。「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。(エペソ4:25)」さらに、パウロは、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ4:29)」と、聞く人に恵みを与える言葉を語るようにも告げています。
では、どうしたら「言葉において誠実な人」「聞く人に恵みを与える人」となっていくことができるのでしょうか。それは、このヤコブ書が繰り返し語っているように、私たちの力によるのではありません。人は、罪の力に縛られてしまっているためです。自分の弱さを認め、神の御言葉に聴き、神に信頼し歩むのです。神を愛し隣人を愛するとの律法の成就者であるイエス・キリストを一心に見つめ、主イエスとともに生きるのです。(ヤコブ1:19~21、1:25参照)行いが先にあるのではなく、主イエスへの信頼が行いを生み出すのです。主イエスは、私たちの罪とその裁きを背負われ、身代わりに十字架に架かり死なれ、そして復活され、私たちを罪とその裁きから解放して下さったのです。考えてみます時に、主イエスは、人々の偽証の中で、十字架に架かり死なれ、そして復活され、勝利されました。宗教指導者しかり、ピラトしかり、ペテロしかり、ニコデモやアリマタヤのヨセフしかりです。人は、罪を解決することはできません。しかし、神、イエス・キリストにはできるのです。
「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(詩篇19:14)」