聖書メッセージ(ローマ8:14~27)ペンテコステ礼拝『子として下さる聖霊を』

『子として下さる聖霊を』

 

聖書箇所 ローマ8:14~27

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 

説教要旨

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(v14)」イエス・キリストを信じ、聖霊に拠り頼んで歩む者は、神の子ども、神の養子です。人類すべてが神に創造されましたが、神の子どもとはなっていません。罪の故に、神に敵対し、神と和解していないからです。しかし、イエス・キリストを信じ、罪赦され、神と和解せられ、ご聖霊が住み、ご聖霊に導かれていく人は、だれでも神の子どもです。パウロは、神の子どもということを説明するにあたり、「奴隷」と「子ども」の違いを記しています。(v15)奴隷は、自分の行ないが主人の目に合わなければ、主人の元からいつ追い出されてしまうか分からないとの恐怖を抱え、びくびくと不承不承に主人に従います。そして、主人は、奴隷の働きのみを見ます。ですから緊張の関係です。一方、子どもは、親の愛の中で、喜んで従います。そして、親は、子の存在そのものを喜びます。ですから平安の関係です。私たちは、神様を怖がって、「こんな歩みをしたら、神様に捨てられてしまうのではないか。」とびくびくと嫌々ながら従うのではなく、神様の愛の中で、喜んで従っていくのです。聖霊によって、神様を親しく「アバ、父」と呼ぶ歩みです。確かに、聖書の中で、「神様のしもべ」という表現があります。神様を畏れ、神様に仕えていくことは、大切なことです。でも、それだけの意識であってはなりません。神様の子どもとせられ、神様に愛されている中で、神様を天の父と呼び、信頼し、喜びの中を歩んでいくのです。神様に従う土台に、神様に愛されている神様の子どもとしての喜びがあるのです。そして、ご聖霊により、自分自身が神の子どもであり、神に愛されているとの実感が与えられていくのです。(v16) 

 

続いて、パウロは、神の子どもとされたことは、神の相続人であることを述べていきます。(v17)当時の一世紀のローマ人やギリシャ人は、養子制度が身近でした。子どもがいない父親は、ある人を、養子として迎え入れました。それは、父親の全財産を受け継がせるとの大きな目的がありました。私たちが、神の子どもとされたことは、神の相続人とされたのです。神様の全祝福、天の御国を受け継ぐものとされたのです。しかし、その天の御国を受け継ぐまでの地上での日々は、神の子どもとしての喜びの歩みですが、苦しみがあります。(v17)(v18)天の御国を呻き待ち望むのです。全被造物が呻き(v19~v22)、私たちが呻いています(v23~v25)。しかし、それだけではない、聖霊ご自身も、ともに呻き、祈っていて下さるのです。(v26、v27)自分の罪に打ちひしがれて、祈れない時があります。苦難の中に置かれ、呻くしかできないような時があります。でも、その時、私たちの内で、聖霊なる神ご自身が深く呻き、それにより私たちのために執り成していて下さるのです。そして、神は、その聖霊により執り成された私たちの魂の呻きを良く知っていて下さり、私たちを癒し、立ち直らせ、引き上げて下さるのです。自らの罪の惨めさに嘆きますが、罪の赦しをいただき、再び新しく歩み出させていただけるのです。重荷の中に置かれ、思い煩いでいっぱいになり、ただただ黙して祈りが言葉とならない、言葉にしたならば何かちっぽけになってしまう、「主よ」としか言葉が出て来ないことがありますが、そこから引き上げられ、癒され、力づけられていくのです。それは、私たちの呻きの中で聖霊も呻き、私たちを執り成して下さっているためです。(イザヤ63:9参照)

 

ペンテコステ礼拝の朝、ご聖霊が私たちを神の子どもとして下さったこと、ご聖霊が神の子どもとされた確信を与えて下さること、そして、天の御国に向かって、呻きつつ歩みますが、ご聖霊がともに呻き執り成して下さることを覚え、「神の御霊に導かれる人は、神の子どもです。(v14)」とあるように、内に住みたもう聖霊に確かに導かれ、神様の祝福の中を力強く歩ませていただきましょう!