聖書メッセージ(ヤコブ5:19~20)『兄弟たち』

『兄弟たち』

聖書箇所 ヤコブ5:19~20
5:19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、
5:20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

説教要旨
本日は、ヤコブ書の最後となりました。今日の箇所も、前回のv13とv14と同じように、「あなたがたのうちに(v19)」と、教会の交わりを覚えつつ記しています。「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば(v19)」「真理から迷い出た者がいて(v19)」「真理(v19)」とは、イエス・キリストご自身、主イエスの救いの言葉(福音)、主イエスの御心に生きる歩み(行為)(3:14)を指しております。「連れ戻す(v19)」という言葉は、立ち返らせることです。主イエス、また主イエスにある生活へと立ち返らせることです。続いて、そのことは、「罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう(v20)」ことだと述べています。5章において「死(v20)」ということは、「永遠の死」「神の正しい御裁き」を指し示しております。神の御裁きから救い出すことである、さらには、「多くの罪をおおう」と、神の前に罪が赦され、その人を回復させ立たせることあるというのです。

では、一体誰が真理から迷い出た者で、一体誰が立ち返らせる者というのでしょうか。病気の人たちに対する教えの時には、長老たちを招いて祈ってもらいなさいと「長老たち」と特定されていましたが(v14)、ここでは全く特定されていません。いいえ。敢えて特定しないような形で「だれかが(v19)」と述べています。それは、「互いに」戒め合い、主イエスとその歩みに立ち返らせることを教えているのでしょう。(v16参照)教会の霊的指導者が信徒を戒め立ち返らせるという交わりがあるでしょう。また、信徒が教会の霊的指導者を戒め立ち返らせるという交わりがあるでしょう。また、信徒同士が互いに戒め立ち返らせるという交わりがあるでしょう。ただ受け入れ合うことが教会の交わりではなく、戒め、戒められ、教え、教えられることが教会の交わりであるのです。(マタイ18:15参照)

しかし、私たちは、戒め、戒められる、教え、教えられることほど、難しいことはないのではないでしょうか。自分が傷つくことを恐れ、忠告することを避け、本来向き合い伝えなければならないことをそのままにしてしまうことがあります。そして、口を開くときには、感情的になって怒るという形となってしまうことがあります。また、教えられ易くというよりも、弁解したり、自己を絶対化したり、「裁いた」と容易に非難したり、忠告を受け止めないのです。どのようにしたら、そのような交わりをなしていくことができるのでしょうか。今日の教えの前に、祈りの交わりを教えていることを改めて覚えたいのです。(v16)その祈りの交わりの中で、いいえ、その祈りの交わりの中でこそ、戒めの言葉が語られ、聞かれていくことを示しているのではないでしょうか。主イエスは、怒り易く、また頑なで高慢であるこの私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、復活され、私たちの罪を赦し、私たちをお造り変え下さるのです。十字架において、私たちの罪は赦され、聖められたのです。その主に向かって互いに祈り癒される交わりの中で、忠告し主イエスへと立ち返らせる交わりへと徐々に導かれていくことができるのです。それは、単に教会の交わりが祝福されていくことを目的としているのではなく、その交わりを通し神様の真実な素晴らしい愛が現わされ、まだ主を知らない人々が救いに加えられていくためです。また、私たちが、そのような交わりの中で癒され、真に成長し整えられ、祈りつつ各々の持ち場に出て、神の御心に生きていくことできるためです。

私たちの魂の中心にイエス・キリストの十字架を立て、教え教えられる者として導かれて参りましょう。ヤコブ書のテーマは、主イエスへの信頼と従順が行ないを生むことです。聖餐の恵みに与ります。自分の罪の深さ、移ろい易さを覚えるからこそ、主イエスの御愛と十字架の贖罪をしっかりと心に刻み、主イエスの霊的いのちに養われ、神の御心に生きる私たちの群れ、私たち一人ひとりとしてこの6月新たに歩み出して参りましょう。