聖書メッセージ(Ⅰテサロニケ1:2~4)『神に愛されている者たち』

『神に愛されている者たち』

聖書箇所 Ⅰテサロニケ1:2~4
1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
1:4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。

説教要旨
7月よりⅠテサロニケ書を見始め、前回は挨拶の言葉でしたが、今日から手紙の本文に入ります。パウロは「いつも(v2)」また「絶えず(v3)」テサロニケ教会を覚え、祈り、神に感謝していました。テサロニケ教会は、迫害の中で主イエスへの信頼と互いの愛の内を歩んでいましたが、弱さや欠けをも抱えていました。4章からは、性的罪に関する言及があり、5:14では「気ままな者」「小心な者」「弱い者」に関し述べられています。しかし、パウロは、いつも神に感謝していました。それは「私たちの父なる神の御前に(v3)」と記し、また「神に愛されている兄弟たち(v4)」と呼びかけているように、神の恵みに目を留めテサロニケ教会を見ていたからでした。それは、パウロ自身が受けた、そして受けていた神の恵みでした。神は、私たちをも同じです。頑なで失敗を繰り返す私たちですが、なお愛し、見捨てず、導き、お養い下さっておられます。その豊かな恵みの中で、私たちも教会を見、兄弟姉妹を見、自分の持ち場において隣人を見、仕え、感謝し、祈りの中で覚えていく歩みでありたいと願います。

続いて、テサロニケ教会の信仰の歩みを見ていきます。第一は、「信仰の働き(v3)」。「働き(v3)」とは、福音を宣べ伝えること、福音に生きること、教会における一つひとつの奉仕、日常の一つひとつの歩み、仕事、それら全てが含まれています。それが、「信仰の(v3)」「信仰に基づく」と言われています。神と主イエスとの交わりなしには、行ないは、どうしても力なきものとなり、不平不満が出てき易いでしょう。でも、神と主イエスに対する信頼に基づいた働きは、本当に不思議ですが、力ある、喜びある、感謝のあるものとなっていくことができるのです。第二は、「愛の労苦(v3)」。「愛」とは、アガペーが使われています。アガペーとは「価値なきものへの愛」と「与える愛」を表しています。「労苦」は、疲弊の伴う労働という言葉です。人を愛することは、決して快適で、容易なことではありません。自分を蔑む人、自分の生活に悩みや負担をもたらす人を愛し仕えることは、疲弊の伴う労苦でしょう。神のアガペーの愛であるイエス・キリストの十字架の死により贖われ、神の愛に生かされ、造り変えられていきます。その中で、キリストの御足跡に従い、与えること、仕えることを止めないで求め続けていきたいのです。第三は、「主イエス・キリストへの望みの忍耐(v3)」。テサロニケ教会は、信仰の迫害の中で、忍耐したのです。歯を食いしばって辛抱するということではなく、主イエスを待ち望み、また、主イエスのご再臨による天の御国を待ち望み続けました。

パウロは、続いてそうした信仰の歩みの「源」を記しました。「神に愛されている兄弟たち(v4)」神は、御子イエス・キリストをこの地に遣わされ、そして十字架で捧げ尽くしてお与えになったほどに私たちを愛して下さった、そして、休みなしに、今も愛して下さっているのです。そして、その神の永遠の愛が発露となって、神に選ばれた(召された)のです。「あなたがたは神に選ばれた者である(v4)」(エペソ1:4~5参照)私たちが、求道の事実、救い事実、受洗の事実を、もし私の側だけの視点でとらえているならば、救いの素晴らしさは、聖書が示しているよりも、はるかに小さなものとなってしまうでしょう。しかし、そうではありません。この天地万物を御造りになられた神が、この天地万物を御造りになられる前から、私たちを愛し、私たちの名を呼び、召し、キリストによって贖い、そして、今、神に愛されているのです。

そこが、私たちの土台であり、立ち返るべき原点です。神の愛と選び。その中で、私たちは、この神に信頼に基づいて一つひとつの働きをなし、神の愛に愛され赦され愛の労苦をなし、そして、確かに苦しみや闘いがありますが、主イエス・キリストを待ち望み続け、天の御国への大きな希望を抱いて歩んでいくのです。