『神に対する信仰』
聖書箇所 Ⅰテサロニケ1:5~10
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
説教要旨
パウロは、テサロニケ教会の信仰の歩みを感謝し(v3)、また、その信仰の歩みの源は、神に愛され、選ばれた者であることを記しましたが(v4)、今日の箇所において、テサロニケ教会が神に愛され、選ばれた者であることの「根拠」を明らかにしています。第一は、福音が伝えられ、それは、単に言葉だけによったのでなく、力、聖霊、強い確信によったことでした。(v5)福音:「神が、神の独り子イエス・キリストの十字架の死と復活により、私たちに罪の赦しを与え、神にある新しいいのちを与えて下さる良き知らせ」、それがテサロニケ教会に伝えられたのは、単に言葉が機械的に伝えられたのではなく、神の働きによりました。第二は、その福音を受け入れたこと、また、受け入れただけではなく、パウロたちと主イエス・キリストとにならう者となったことでした。(v6)イエス・キリストが、私たちを愛し、私たちの罪からの救いのために十字架で苦しまれ、死なれ、そして復活された救い主であると受け入れたことは、聖霊によるのです。さらに、受け入れただけではなく、テサロニケ教会は、パウロと主イエスとに倣う者、即ち、信仰の闘いや迫害の中で、なお、主イエスに信頼し、従ったのでした。第三は、福音を受け入れた信仰の姿であり、その信仰の姿が諸教会の模範となっていったことです。(v7~v8)
では、どのような信仰の姿だったのでしょうか。(v9、v10)第一は、偶像から神に立ち返ったことでした。テサロニケの地は、多神教でした。しかし、その神々を捨て、真の神、創造者なる神に立ち返ったのです。第二は、生ける真の神に仕えていることです。偶像は、生きていないのです。しかし、真の神は生ける神であり、その神に従順に仕える歩みでした。第三は、主イエスのご再臨を、そして天の御国を待ち望む歩みです。(v10)テサロニケ教会は、信仰故の苦難の中に置かれていました。でも、彼らは、自分たちを愛し、十字架に架かり死なれ復活され、神の永遠の御裁きから救い出して下さった主イエス・キリストのご再臨、天の御国を待ち望み、その希望をしっかりと見据え、そこに焦点を当て、そこに立ち返って一日一日を、古き罪の性質を捨てながら、生けるまことの神に仕え歩んでいったのです。きらびやかな、派手な働きではなく、このような信仰の日常の姿が、マケドニヤ州、そしてアカヤ州に「伝わっている(v8)」「他の人々が言い広めている(v10)」とあるように、人から人へと伝えられていったのです。
以上、パウロが、テサロニケ教会が神に愛され、神に選ばれた者である根拠を明らかに思い起こさせたのは、テサロニケ教会を励ますためだったでしょう。私たちもまた、神を知らないこの世に歩み、日々の歩みにおいて、重荷を負わせられ、思うように願ったように事が運ばず、自らも、そして自らの周りも罪の力になびき、信仰の闘いを覚え、そして時に打ち負け意気消沈する、そのような中で歩んでおります。でも、思い起こしたいのです。福音が自分に届けられたこと、福音を受け入れ、揺れ動きながらも福音に留まっていること、弱さを覚えながらも真の神に仕え、主イエス・キリストを待ち望んでいる歩みが、神に愛され、神に召されている事実です。神は、確かに私たちを愛し、覚え、いつも、絶えず、目を留めて下さっておられるのです。神に愛され、神に召し出され、そして、神が確かにともにあって下さり、「あなたがたを守る」と約束して下さっておられるのです。
「神に愛され、神に選ばれた者であること」苦難の中でこそ、そこに立ち返っていきましょう。そして、私たちが、主イエスのご再臨、天の御国を静かに待ち望み、それぞれの置かれた所で、置かれた状況の中で、日々、古き性質を捨て去り、生けるまことの神に仕え、その日常の歩みを通し、主イエス・キリストをお証ししていきたいと願います。