聖書メッセージ(Ⅰテサロニケ2:1~6)『神の福音を』

『神の福音を』

聖書箇所 Ⅰテサロニケ2:1~6
2:1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。
2:2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
2:3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
2:5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
2:6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。

説教要旨
2章に入り、パウロは、自らのテサロニケでの宣教の働きと態度を記しました。それは、当時、同じように、様々な宗教や哲学を教え歩いていた人たちがいたようで、パウロもそのような一人に過ぎない、自分の利得のために宣教したに過ぎないとの批判があったためです。それに対し、パウロは、そうではないと弁明していきます。第一は、激しい苦しみの中でも、大胆に神の福音を語ったことです。(v1~v2)神の福音とは、神がもたらして下さったイエス・キリストによる救いの良き知らせです。もし自らの利得のためであったならば、激しい苦闘の中で神の福音を語ることはないはずだと弁明しました。第二は、福音を語った動機についてです。(v3)自分たちが告げた教えが誤りや不順な心からではない、だましごとでもないと弁明し、「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者(v4)」と神に認められ、福音を委ねられた者との明確な自覚を持ち、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてはなく、神を喜ばせようとして語ったと告げました。そして、この「人を喜ばせようとしてではなく(v4)」を掘り下げていきます。(v5、v6)へつらいの言葉を用いなかった、人の機嫌を取るような甘い言葉を語りませんでした。創造者なる神を、罪を忌み嫌われる聖い神を、そして、人間の罪とそれに対する神の御裁きを、そして、神の憐れみ、十字架に架かり死なれ復活されたキリストを、悔い改めとキリストを信じる信仰を語ったのです。また「むさぼりの口実を設けたりしなかった」、自分が利得となるようなことを内に伏せ告げたことはしなかったのです。そして、「人々からの名誉を受けようとしなかった」のでした。

パウロは、以上のように弁明し、決して自らの利得のために神の福音を語ったのではないと告げました。それは、牧師、私自身に対する教えであり、また私たち教会に対する教えです。第一は、激しい苦闘の中でも、大胆に神の福音を語ることです。福音を語った時、無関心、無理解、具体的な痛みを受けることがあります。でも、ひるまず、福音を語り続けるのです。第二は、福音を語る動機です。自分の利得のためではなく、神から失われた魂への重荷を抱いて、神に福音を委ねられた者との自覚と光栄を抱いて語ります。第三は、人を喜ばせるのではなく、神を喜ばせようとして語ります。そして、そのことこそが本当の意味で人を救うことを信じて語ります。また、これらは語る側からの面ですが、受け手でもある私たちの在り方も問われているでしょう。福音に生きていく歩みは、即時的なものではありません。キリストを信じたならば、物事がうまくいく、効果が表れる、そういうものではありません。聖書は、こういう問題には、こういうようにしなさいとのマニュアルが記されているのでもありません。神と私たちの関係を見つめさせ、神は、ご自身と四つにくむような歩みに私たちを導かれ、その苦難の中で取り扱い、練り清め、表面的・一時的な助けや安堵を与えるのではなく、イエス・キリストを通し神にあることの真の祝福と幸いの内に置かれるものであることを覚えていたのです。

罪を告げ、悔い改めを迫るイエス・キリストの福音を語る歩みは、苦闘があります。私たちは、決して自分の力ではなしえず、この務めを担い続けることはできません。パウロは、「私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。(v2)」と述べております。「私たちの」と、私たちを十分ご存知の主なる神、私たちを選び、立て、任命して下さった神によって、神の福音を宣べ伝えていくのです。

パウロが弁明したのは、自分のために弁明したのではなく、福音宣教の働きが妨げられないため、すなわち福音のために弁明したのです。福音は、人を罪から救う神の力です。(ローマ1:16)ですから、苦闘の中でも、切に祈りながら私たちの神によって、この神の福音を、大胆に、へつらうことなく語っていく私たち、守谷聖書教会でありたいと願います。