聖書メッセージ(Ⅰテサロニケ2:17~3:5)『誉れ、喜び』

『誉れ、喜び』

 

聖書箇所 Ⅰテサロニケ2:17~3:5

2:17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。

2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。

2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

3:1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、

3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、

3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。

3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。

3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。

 

説教要旨

パウロは、ユダヤ人の暴動により、テサロニケ後を離れなければならず(使徒17章)、離れた所で迫害の中に置かれていたテサロニケ教会を絶えず心に留めていました。「引き離された(v17)」とは、「孤児になる」という言葉です。父母から引き離された子が父母を切に慕い求めるごとく、パウロは、テサロニケ教会を慕い、人々の顔を見たいと切願したのです。テサロニケ教会の所に行こうとしましたが、その道は開かれませんでした。(v18)パウロは、それほどまでにテサロニケ教会の人々を慕っている理由を記します。(v19、v20)主イエスが再び来られ、パウロが神の御前に立つ時、テサロニケ教会の人々こそ、パウロの働きが主に喜ばれる望みの根拠であり、彼が天で受ける喜びや神の報いの根拠であったためです。これは、自らの働きを人間的に誇っているのではありません。テサロニケ教会は、自分にとって、信仰の視点から、どれほど大切で誇るべき存在であるかを示しているのでしょう。親が、我が子を、大切な人の前に紹介するとき、自らの子育てを誇るというのではなく、本当にその子そのものの存在を喜び、誇っているとのニュアンスに似ているのかもしれません。そして、テサロニケ教会の人々を救いと成長に導かれた神を称えているのでしょう。そう喜び誇ることにより、闘いの中にあるテサロニケ教会の人々に、主イエスへの信頼に堅く立つように促しているのでしょう。

 

パウロは、アテネに留まり、信頼するテモテをテサロニケ教会に送りました。それは、テサロニケ教会の信仰を強め励まし、苦難の中にあっても動揺しないようにするためでした。「ひとりもないように(v3)」と述べていますが、パウロが覚えていたのでは、教会という一つの団体ではなく、そこにある群れであり、群れに連なる一人ひとりでした。パウロは、テサロニケ教会において、初めから、主イエスを信じ従う歩みには、大きな喜びだけではなく、苦しみに遭うことを教えてきましたが、それが事実となったと記しました。(v3、v4)主イエスを信じ、神に従順に従い、神とともに歩む生涯は、神の祝福のある生涯です。「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。(詩篇23:6)」私たちは、神とともにある歩みの幸いを信じ、経験し、自信をもって語ります。隣人が、家族が、子どもがこの信仰の道に生きることを切願します。しかし、同時に、神とともに歩む生涯は、信仰故の苦しみや迫害があります。主イエスを唯一の主、救い主と従い、その御心に生きようとすることの故に、苦難の中に置かれることや孤立することが避けられないことがあります。また、「誘惑者があなたがたを誘惑して(v5)」と、誘惑者(サタン)は、神との平和、隣人との平和を崩そうとします。誘惑者は、巧妙で、私たちそれぞれの弱さを知り、巧妙に神から引き離そうといたします。しかし、そういう誘惑の中で、主に信頼して歩むとき、主は試練とともに脱出の道を備えて下さいます。主に信頼していく者は、守られ、勝利の中を歩んでいくことができるのです。

 

「もはやがまんできなくなり(v1)」「あれ以上がまんできなくなり(v5)」パウロの強い感情が出ておりますが、このパウロの姿を見つめていくときに、教会を愛し、私たち一人ひとりを愛しておられるイエス・キリストが浮かび上がってくるのではないでしょうか。主イエスは、私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架で命を捨て、復活され、私たちを罪から贖い、その私たちを慕い、天の御国において「喜び、誉れ」とおっしゃって下さるのです。天の御国までの信仰の戦いを、揺さぶられることなく、ご自身に堅く信頼し立っていくよう御声をかけ、ともに歩まれ、切に祈っていて下さるのです。

 

主イエスが再び来られ、神の御前で「喜び、冠」とせられる勝利の日を信じ、この信仰の祝福の道を、闘いの悲しみの道を、そして悲しみが勝利に変えられていく道を一歩一歩歩ませていただきましょう!

 

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