『神を喜ばす歩み』
聖書箇所 Ⅰテサロニケ4:1~2
4:1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
4:2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
説教要旨
4章から後半に入り、パウロは、キリスト者の具体的歩みを記しています。1節と2節は、その土台となる言葉です。パウロは、テサロニケ教会の人々に願い、勧告していますが、「主イエスにあって(v1)」願い、勧告したのです。2節でも「主イエスによって(v2)」命令を授けたと確認しております。これは、単に自分の願いや勧告ではなく、主イエスの権威に基づいてということを示しており、また、パウロ、そして、テサロニケ教会の人々が、主イエスに結ばれていることをも示しております。
では、主イエスの権威に基づき、主イエスに結ばれた者として、結ばれている者に対し何を願い、勧告したのでしょうか。神を喜ばす歩みをなしていくことです。(v1)神がお喜びになられる歩み、神の御心に従った歩みをなしていくことです。「神を喜ばすべき(v1)」:神が喜ばれる歩みをなしていってもよいし、そうでなくてもよいとの選択的なものではなく、神が喜ばれる歩みをなしていくべきであるのです。神は、ご自身の愛する御子イエス・キリストをこの地にお与え下さり、御子を私たちの身代わりに十字架で裁かれ、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与え、いかなる時も共に歩んで下さり、日々の必要を満たし、全てのことを合い働かせて益とし、いのちの日の限り慈しみと恵みをもってお導き下さるのです。その神の贖いと慈しみの感謝から、私たちは、神を喜ばす歩みをなしていくべきであるのです。「どのように歩んで神を喜ばすべきか(v1)」:歩んで神を喜ばすというのです。これは日常の地道な歩みを示しております。何か華やかで、大きな働きで神を喜ばすのではありません。神は、日常の愛と聖さの地道な歩みをお望みになられているのです。
とは言え、テサロニケ教会の人々は、すでに神を喜ばす歩みをなしていました。しかし、パウロの願い勧めることは「ますますそのように歩んでください(v1)」でした。ますます、日を重ねていくごとに、一歩でも二歩でも神の御心に従った歩みへと成熟していくのです。それは、罪との闘いの歩みでもあります。主イエスを信じ、一切、罪を犯さなくなるわけではありません。罪の根源的支配からは解放されましたが、まだ罪の性質は残っております。そして、時に、罪に打ち負けてしまうことがあります。その時、自分が救われていないのではないか、神は同じような過ちを繰り返す私に愛想が尽きてしまったのではないかと思います。しかし、そうではありません。一度、主イエスを信じ、罪赦され、永遠のいのちに与ったからには、たとえ罪を犯しても救いの約束が失われるのではないのです。キリストの贖いは、完全です。神の愛は、そんなに貧弱ではないのです。神は、私たちが裏切っても、心を痛めながら、なお、手を伸ばし、罪を告白する者を赦し、依然として神の救いの光の中において下さるのです。このような弱さを抱えながら、なお「ますます」と日常の歩みにおいて、愛と聖さにおける成長を求めていくのです。そして、その成長は、私たちの意志や決意に拠るものではありません。「主イエスにあって(v1)」と、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり死なれ、その死に打ち勝ち復活されたイエス・キリストに拠るのです。
この歩みは、ある意味で緊張のある歩みです。でも、窮屈な歩みではありません。「その緊張は、重荷となるような、私たちを束縛する、拘束されたような感覚と違います。赦され、愛され、受け入れられているという解放感を伴う恵みの緊張です。(遠藤嘉信牧師)」今日は敬老のお祝いが持たれます。敬老のお祝いを迎えられた方は、神の御愛と救いの恵みに応じ、「ますます(v1)」と、主イエスにあって神がお喜びになられる歩みを目指していただきたいと願います。また、私たちも、これらの方々の信仰のご生涯を覚えさせていただく中で、神とともにある歩みの幸いを覚え、ますます信仰の高嶺へと主イエスにあって導かれて参りましょう!