聖書箇所 へブル12:1~3
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
説教要旨
本日は2017年最初の主日礼拝、元旦礼拝です。へブル書12章の御言葉に聴いて参ります。ヘブル人への手紙は、著者ははっきりとしておらず、手紙の受け取り人は旧約聖書の知識によく通じており、恐らくユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト者たちであったと思われます。彼らは、外部からは、ローマ帝国の権力者たちによる迫害、内部からは、回心した者たちの中に再びユダヤ教に戻ろうとしていた者たちの脅威に直面していました。私たちは、人生を旅や大海原に浮かぶ小舟に例えますが、著者は、信仰の歩みを「競争(v1)」と述べました。「競争(v11)」と言っても、誰かと競い合い、勝った負けたということではなく、「私たちの前に置かれている競争(v1)」と、私たち一人ひとりの前に置かれている闘いの歩みを指しています。その闘いのレースを、「忍耐をもって走り続けようではありませんか(v1)」と慰め、励ましたのです。
では、信仰の闘いをどう歩んでいけばよいのでしょうか。まず「捨てる歩み」です。「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて(v1)」「いっさいの重荷(v1)」とは、神に従っていく恐れ、神に従っていくことで予想される困難を心配しての思い煩いを指しているでしょう。 「まつわりつく罪(v1)」の「罪」とは、神を中心に生きるのではなく、自分を中心に生きることです。神よりも、富や、権力や、称賛や、この世の儚い楽しみを求め、拠り頼んでいくことです。それが「まつわりつく(v1)」のです。絶えず神から引き離そうとする力に引かれるのです。でも、それを「捨てて(v1)」なのです。一度、さようならをして終わりではなく、捨て続けるのです。第二は、見上げる歩みです。「イエスから目を離さないでいなさい(v2)」 「信仰の創始者であり、完成者であるイエス(v2)」とは、イエス・キリストが父なる神への信頼の初めの方であり、完成の方であるということです。イエス・キリストは、神の独り子であられましたが、人としてこの地に来られ、父なる神に従われ、私たちの罪の身代わりに十字架を忍ばれました。それは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに(v2)」十字架の苦しみを経ての栄光の故に、それは単にご自身の喜びというだけではなく、父なる神の喜び、父なる神のもとに立ち返った私たちの喜びの故に、十字架の御苦しみを忍び、父なる神に従い通されたのです。主イエスは、父なる神への従順という信仰の模範者です。また、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス(v2)」とは、もう一つの意味があります。「創始者(v2)」とは、「指導者」「導き手」とも訳されます。私たちの信仰のレースの導き手であり、私たちの信仰を完成へと導いて下さるイエス・キリストとの意味でもあります。私たちは試練や誘惑の中で弱り、失敗し、迷いますが、主イエスは、その私たちを決して見放さず、私たちの悲しみをともに悲しみ、苦しみをともに苦しみ、私たちの罪を赦し、慰めを与え、天の御国にいたるその日まで伴い、私たちの信仰を完成へと導いて下さるのです。
このお方から目を離さないこと、「考えなさい。(v3)」とあるように、このお方の歩みを思い巡らし、考え、歩んでいくのです。信頼し、自らを委ねて歩んでいくのです。「それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(v3)」神はその信頼に応え、私たちを慰め、力づけ、立たせ、祝福と勝利の歩みへと導いて下さるのです。もう一度神から委ねられた使命に生きる歩みへと導いて下さるのです。
主イエス・キリストがともにおられます。新年の希望の中で、試練の悲しみの中で、重荷とまとわりつく罪を捨て、即ち神の前に自分を空しくして、そして主イエスから目を離さず、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けて参りましょう。強められ、支えられ、祝福の内を歩んで参りたい。神を愛し、隣人を愛し、神の栄光を現わす使命の歩みへと導かれて参りたいと願います。「主イエス・キリストから目を離さないで!」
<祈祷>
「もしあなたが、がっかりしたのだとしたら、それはあなたのうぬぼれの表れです。それはあなたが、あなた自身の力を信じていることを表しているからです。あなたの自己充足感、あなたの自己中心、あなたの知的なプライド、これらは、神があなたの心の中に訪れてくださることを抑えてしまうでしょう。なぜなら、神はすでにいっぱいのものを満たすことはできないからです。それはほんとうに単純なことです。マザー・テレサ『日々の祈り』」