聖書メッセージ『霊の家に築き上げられる』(Ⅰペテロ2:4~5)

 

聖書箇所

2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

 

説教要旨

2017年の年間聖句はⅠペテロ2:4と5とし、標語は「霊の家に築き上げられる」です。この手紙は、ローマ皇帝ネロによる迫害の苦難の中に在った教会とキリスト者一人ひとりに向けて、ペテロにより記されました。今日の御言葉は、手紙の中心聖句で、教会と私たち一人ひとりがいかなるものであるのか、そしていかに歩んでいくのかを示す土台の言葉です。

 

「主のもとに来なさい(v4)」キリストを信じ、キリストに結ばれるのです。主イエスは、当時の宗教指導者から拒まれ、十字架に架かり死なれました。(v4)しかし、それこそが、世界を創造され、主権をもって治め愛しておられる神の救いのご計画でした。(v4)神は、独り子イエス・キリストをこの地に遣わされ、ご自身と私たちを隔てている罪の身代わりに十字架でお裁きになられ、そのイエスを復活させ、私たちの救いの礎とされました。神は、主イエスを信じる者に全き罪の赦しと永遠のいのちを与えて下さいます。自分の人生にちょっと主イエスを付け加えるのではなく、主イエスに身を明け渡していくのです。その時に古い自分が主イエスとともに死に、主イエスの復活により新しく造り変えられていくことができるのです。

 

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。(v5)」「霊の家(v5)」とは、私たち一人ひとりにより組み合わされたキリストの御体なる教会を表しています。①「教会と私」ということを考えてみたいのです。神から離れ歩んでいた私がキリストを信じ、罪赦され、新しく神の子どもとして誕生しました。どこまでも神と私という関係です。と同時に、神の家族、教会の一員とせられたのです。ですから、私の信仰生活は、私たちの教会生活であり、私たちの教会生活は、私の信仰生活であるのです。信仰の歩みは、個人主義ではありません。神と私という関係の二次的なものとして教会があるのではありません。と同時に、集団主義でもありません。個人の人格が埋もれ、個人が教会の目的のために利用されるようなものでもありません。一人ひとりが生ける石として、教会の交わりの中で大切にされ、成長し、用いられていくのです。②教会は、いのちのない「建物」や「組織」や「制度」ではありません。「霊の家(v5)」です。教会は、神の御住まい、聖霊の御住まいです。教会は、神との生きた交わりのある群れであり、互いの交わりのある群れです。神に愛されている私たちであり、互いに愛する私たちです。いよいよ神が豊かに住まわれ、神との交わりが深められ、主を中心とした互いの交わりが深められていくいのちの共同体です。③ペテロは受動態を使います。「築き上げられなさい(v5)」さあ、必死に頑張って、自分たちの力で霊的な群れになっていくのではないのです。キリストご自身が、私たちを霊の家に築き上げて下さるのです。主イエス・キリストがそうして下さるとの信頼をもって、私たちが霊の家に築き上げられていくことを切に求めていくのです。

 

霊の家に築き上げられていくのには、大切な目的があります。「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(v5)」神に受け入れられる霊のいけにえとは何でしょうか。「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。(へブル13:15)」キリストを通して、神に礼拝を捧げることです。主日毎に、ともに呼び集められ、神に礼拝をお捧げいたします。「善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。(へブル13:16)」私たちの日々の歩みを通して、イエス・キリストの愛に生きていくことです。

 

守谷の地に主の教会が在ること、置かれた地に私たち一人ひとりが在ることは、神の目に尊いことです。どんなに世の力が強く見え、試練が大きくても、主イエスは、すでに世に打ち勝ったお方です。主イエスの下に来て、建て上げられ、神に礼拝を捧げ、主のお証に生きていきましょう。