聖書メッセージ『見分け、守る』(Ⅰテサロニケ5:19~22)

 

聖書箇所 Ⅰテサロニケ5:19~22

5:19 御霊を消してはなりません。

5:20 預言をないがしろにしてはいけません。

5:21 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

5:22 悪はどんな悪でも避けなさい。

 

説教要旨

「御霊を消してはなりません。(v19)」ご聖霊は、イエス・キリストを信じる者すべての内に住まわれておられます。私たちを慰め、力づけ、導き、キリストのご性質に似る者、神の御心である愛に生きる者へと造り変えて下さいます。私たちの内に住みたもう聖霊は、罪を犯したならば離れてしまうお方ではなく、一方的な恵みとして私たちの内に住んで下さっておられます。でも、ここで、パウロは「御霊を消してはなりません。(v19)」と教えました。いかに御霊の働きを消し、抑えてしまうのか。「汚れの内に留まる」「罪に対して曖昧な態度を取る」「捨てない態度を取る」「罪赦された罪人との言葉を隠れ蓑にして「仕方ない」と妥協する」「罪を悲しむことをしない」それらが御霊を消すことでしょう。(4:7~8、エペソ4:30参照)ご聖霊が私たちの内で燃え、自由に働いていただくには、古い自我を、イエス・キリストの十字架とともにつけ、つけ続けるのです。その時に、聖霊は私たちの内に燃え、自由に働き、私たちを造り変えて下さるのです。

 

「預言をないがしろにしてはいけません。(v20)」「預言(v20)」とは、使徒時代の教会に与えられた聖霊の特別な賜物の一つでした。(Ⅰコリント12:10、28)預言は、聖霊の働きの中で、誰にも理解される言葉で、神の啓示された御旨を告げ示すことでした。神は、歴史の中にイエス・キリストの教会が建て上げられるために、特に使徒と預言者という特別な職を教会の中に立て、一切の真理を啓示し、示されたのです。(エペソ2:20)ですから、聖書が完成されるとともにこの賜物と職もその務めを終え、今では、神はその聖書を説き明かす教師を立てました。ですから、「預言をないがしろにしてはいけません(v20)」とは、今日で言うならば、神の御言葉とその説き明かしを蔑ろにしてはならないということです。人は、福音の宣教により救われ、御言葉の教えにより教会と私たち一人ひとりは聴き養われていきます。神の御言葉とその説き明かしを蔑ろにすることも、前節の御霊を消すということであるでしょう。主日毎の御言葉により、日々の御言葉と祈りの歩みにより、火に例えられる聖霊に燃料を加え、聖霊に導かれて歩んでいくことができるのです。

 

但し、パウロは、「では、預言、神の御言葉の説き明かしであるならば、無批判に何でも受け入れるべきである」とは教えておりません。「すべてのことを見分けて(v21)」と「吟味するように」と教えます。当時、預言者と呼ばれていた者たちの中で、使徒の教えから逸れた偽りの教えがあったのです。預言を神の御言葉(使徒の教え)により吟味する必要がありました。(Ⅰコリント14:37)私たちは、御言葉の説き明かしを、御言葉に照らし、吟味していく必要があるのです。そして、それが誤っていない、良いものであるならば、その良い教えを堅く守っていくのです。「ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(v21)」御言葉の正しい説き明かしであるならば、その御教えに聴き従っていくのです。自分の常識や経験や判断を土台とし、優先するのではなく、神様に信頼し、御言葉に尋ねながら、御言葉に聴き従って歩んでいくのです。そこに、本当に神様の祝福された道が用意されていくのです。(マタイ13章参照)その一方で、誤った教えは、避けていきます。「悪はどんな悪でも避けなさい。(v22)」神様の御言葉に反する教えに対しては妥協することなく、寛容であることなく、御言葉とその教えに堅く立っていくのです。(ガラテヤ1:7~8)

 

罪に対し曖昧な態度を取らず、罪を悲しみ、私たちの内に住み働きたもうご聖霊なる神に身を委ねていく、ご聖霊に支配されていく、そして、神様の御言葉とその説き明かしを大切にし、誤っていないかを見分け、良いものであるならば、そこに聴き従い留まっていく。そのようにして、教会と私たち一人ひとりが、成長し、神様の祝福の中に生き、神様の救いのお働きにお仕えしていく歩みをなさせていただきたいと願います。