聖書メッセージ『主は真実な方』(Ⅱテサロニケ3:3~5)

聖書箇所

3:3 しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。

3:4 私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。

3:5 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。

 

説教要旨

「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。(v3)」「しかし(v3)」とあります。それは、2節後半の「すべての人が信仰を持っているのではないからです(v2)」を受けて、それとは対照的に、「主は真実な方(v3)」と述べているのです。「真実な方(v3)」とは、ご自身が約束したことを決して破らないお方であるということです。「悪い者(v3)」とは、2節からの関係で考えるならば、パウロがコリントで自らの働きを妨げた迫害者と同様、テサロニケ教会に対する迫害者を指していたでしょう。しかし、パウロがより意識していたのは、その背後にあったサタンの働き、この世の悪の力だったでしょう。しかし、イエス・キリストは、御自身の真実さ、「わたしはあなたがたとともにいる」との約束にかけてテサロニケ教会の人々と伴い続け、強くし、悪い者から守って下さるというのです。人は、やはり変わり易い者です。私たちの状態や言動によって、昨日の友が明日の敵となることさえあります。いいえ。人がと誰かのことではなく、私たち自身がまさにそうです。弱さと限界があります。悲しいかな。最後は自分を救おうとする者です。でも、イエス・キリストは、自分を救おうとする私たちの罪の只中で、唯一、自分のいのちを与え尽くして十字架にお架かり下さり、死なれ、苦しみの極みを受けられ、その死の中から復活し、「わたしはあなたとともにいる」と約束し、その約束を破ることがないのです。(Ⅱテモテ2:13参照)

 

「私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。(v4)」「私たちが命じること(v4)」とは、v6以降の、イエス・キリストのご再臨を待ち望みつつ、神から与えられた日々の務めを精一杯なしていくことでしょう。そのことをテサロニケ教会の人々は、今実行しており、今だけではなく、これからも実行してくれることを確信していると述べました。その確信は、テサロニケ教会の人々の故ではなく、「主にあって(v4)」であったのです。「主は、真実な方(v3)」の、その「主にあって(v4)」なのです。私たちの信仰の歩みにおいても、そうです。自分を見るならば、決してその闘いを成し遂げていくことはできないでしょう。でも、私たちの信仰の歩みの土台は、私たち自身にあるのではなく、真実なイエス・キリストにかかっているのです。イエス・キリストご自身が私たちを信仰から信仰へと歩ませ、信仰の旅路を守り、支え、御言葉に生きる者としてお育み下さるのです。

 

「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。(v5)」「神の愛(v5)」とは、イエス・キリストの十字架と復活に示された私たちに対する神の御愛です。また、私たちの神に対する愛をも表しています。「キリストの忍耐(v5)」とは、私たちを愛し、十字架に架かられ、苦しみを忍び通して下さったイエス・キリストの忍耐です。また、イエス・キリストの御足跡に従っていく私たちの歩みをも指しています。キリストのご再臨を待ち望む「希望」との意味でもあります。その神の愛とキリストの忍耐に心が導かれていくよう祈ったのです。

 

 改めて、ここでパウロが「主(v3、v4、v5)」との言葉を繰り返していることを覚えたいのです。(マタイ28:16~20)イエス・キリストは、世界の主であり、私たちの生活の全領域における主であり、いつもともにいて下さるのです。教会の中だけではありません。私たちの持ち場においてです。喜びの中だけではありません。悲しみの只中においてです。信頼や従順の中だけではありません。私たちの疑りや揺れ動きの只中にあって不信頼を越えてともにいて下さるのです。迎えた四月の日々、この真実な主イエス・キリストに新たに信頼し、重荷を委ね、苦しみを注ぎ出して祈り、主によって立たせていただき、神の愛とキリストの忍耐の中を歩ませていただきましょう。