聖書箇所 ルカ24:44~49
23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。
説教要旨
主イエスが十字架に架けられていた時、全地が暗くなりました。(v44)これは、単なる自然現象ではありませんでした。旧約聖書の出エジプト記において、神のエジプトに対する十の裁きが臨みましたが、その一つとして暗闇に覆われたことが記されています。暗闇は、神の裁きがこの地に臨んだことを示しておりました。聖書は、人間の「罪」の問題に焦点をあてます。「罪」とは「的外れ」という言葉です。神に向かって、神の下で生きるべき者として造られた人間が、神に背を向け、神に高ぶり、神から引き離されました。そして、罪の力に支配され、神に対しても人に対して愛に生きることを失い、また、自分の存在価値や意義を見出せなくなりました。創造者なる神と人間の関係が壊れていること、これが私たち人間の悲しみや苦しみの根です。神は、完全に聖く、正しいお方で在られ、罪を正しく怒り、お裁きになられるお方です。神の怒りは、決して人間の癇癪のようなものではありません。人間の罪に対する正しい態度です。神は、ルーズなお方ではありません。罪を嫌われ、罪を憎まれるお方です。聖なる神の前に、私たちは、立ち得ず、近づくことができない者です。しかしまた、この暗闇は、神の救いの御業の前兆でもありました。エジプトへの最後の裁き、イスラエルへの救いの出来事の前が、暗闇に覆われた出来事であったのです。
では、神の救いの御業は、どのようなものだったのでしょうか。「神殿の幕は真二つに裂けた。(v45)」 暗闇は、神の裁きが全地を覆ったことを示しましたが、その裁きは、十字架に架けられた神の独り子イエス・キリストに臨んだのでした。ちょうど子羊が屠られ、血が流され、それを門柱と鴨居に塗ったイスラエルの民が、神の救いの御業に与ったように、神は、神の独り子、神の子羊であるイエス・キリストを十字架上で私たちの身代わりに裁かれ、救いの御業を成し遂げて下さったのです。神殿の幕は、神を礼拝する神殿内の至聖所と聖所を隔てていた幕でした。至聖所は、神殿の一番奥で、聖なる神の特別な臨在の場でした。神殿の幕は、人間の罪の故に、神と人間の交わりの隔てを示していました。しかし、それが、裂けたのです。神と私たちを隔てていた罪を、イエス・キリストが背負われ、身代わりに裁かれ、私たちに神との交わりの道を備えて下さったのです。イエス・キリスト自ら十字架に向かわれ、十字架を背負い、十字架から降りず、神の裁きを受け、私たち人類の贖いの業を成し遂げ、敗北者ではなく、救いの完成者として父なる神のもとに行かれたのです。
このイエス・キリストの十字架の死を見た者たちの内に、変化が生じました。第一は、百人隊長です。(v47)真の神を知らず、ローマ皇帝のみを「主」としていた者が、救い主イエスを認め、神をほめたたえる者となったのです。第二は、群衆です。(v48)「胸をたたいて悲しみながら」とは、自分の罪を悲しむ姿です。単なる見物人では留まることができませんでした。そして、ペンテコステでペテロの説教により多くの人々が主イエスを信じましたが(使徒2章)、その道備えの経験となったでしょう。第三は、主イエスの知人やガリラヤから主イエスについて来ていた女たちです。主イエスの十字架の死の前に呆然とし、絶望に伏せました。でも、後に、この人々が主イエスの復活の証人とせられ、内から喜びに溢れたのです。いずれも、共通点は、十字架の主イエスを見たということ、見続けたということです。そこに、自分の罪が示され、神の御子、救い主イエスという信仰が与えられ、絶望の中から希望に生きるようになっていったのです。
私たちも、この朝、十字架に架かかられた主イエスを見たいのです。自らの罪を認め、主イエスを神の子、救い主と受け入れ、罪赦され、神をほめたたえる新しいいのちをいただいて参りたいと願います。罪の赦し、罪に打ち勝力、天の御国への確かな約束を頂いて参りたいと願います。