聖書メッセージ『我は信ず』(マタイ16:13~18)(使徒信条1)

聖書箇所 マタイ16:13~18

16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」

16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

 

説教要旨

本日より、使徒信条を学んで参ります。今日は、序論的なことを見ていきます。まず「起源」です。使徒信条が現在の形に完成したのは、8世紀頃だと言われております。しかし、その時点で教会会議を開き定めたのではなく、教会の歴史の中で次第に整えられていったのです。2世紀後半には、使徒信条の原型と言われる古ローマ信条というものが存在し、洗礼を受けるにあたり信仰教育として、また誓約文として教会の中で用いられていました。それを基として、使徒信条は、洗礼者のため、また礼拝での告白のために用いられ、8世紀には、今の形に整えられました。

 

続いて「構造」。使徒信条の構造は、三位一体なる神を告白しております。父なる神に対する告白であり、それは私たちの創造についての告白であり、子なる神、イエス・キリストに対する告白であり、それは私たちの贖いについての告白であり、聖霊なる神に対する告白であり、それは私たちの聖化についての告白となっています。もう一つ確認したいことは、イエス・キリストに対する告白に重心が置かれていることです。それは、唯一の神であるにも関わらず、イエスを神とすることが問われたためです。また、ローマ帝国における皇帝崇拝の強要のもとで、「皇帝は主」と人々が告白していたに対し、「イエスは主である」との告白をなしたためです。

 

「我は、信ず」これが使徒信条の特徴です。その他の基本信条は、「我らは」と複数形です。単数形で告白しているのは、洗礼を受けるにあたっての告白であったためです。信仰は、神と私の関係です。他の人がどうこうではない。この私が誰を信じるのかということです。と同時に、それが余りにも強調され過ぎ、信仰が個人主義になってはなりません。使徒信条の由来が、洗礼を受けるため、即ち主の教会に連なる者とされるためのものであったように、また、礼拝において使徒信条が告白されてきたように、「我らは」と教会の信仰の告白としても告白されるものです。主イエスは、ローマ皇帝崇拝の強いピリポ・カイザリヤの地方に行かれた時、弟子たちに尋ねました。「人々は人の子をだれだと言っていますか。(v13)」弟子たちは、人々が主イエスに対し述べていることを告げました。(v14)それを聞かれた主イエスは、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。(v15)」と弟子たちに尋ね、信仰の告白を求められたのです。ペテロは答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。(v16)」私たちも日本の世の中で、主なる神への信仰の告白をなしていくのです。この信仰が与えられ、この信仰に立ち続けていくのは、私たちの意志や覚悟は大切なことですが、しかし、その根底は私たちにあるのではなく、神の恵みにあります。(v17)ひたすら神の恵みに拠り頼んでいくのです。そして、その信仰の告白を基として、主の教会が建てられていくのです。(v18)主イエスへの信頼をもって歩む教会と私たち一人ひとりに、いかなる罪の力も打ち勝つことができません。「ハデスの門もそれには打ち勝てません。(v18)」世において艱難や試練があります。信仰の闘いを覚え、その中で深い寂しさを感じることもあるでしょう。また、自分の内にも罪の闘いが絶えずあります。信仰とは「確かな認識と心からの信頼」です。試練の中で、この世の力や価値観により恐れ揺れ動く中で、自らの罪深さを覚える中で、使徒信条を毎週告白します。三位一体なる神を新たに認識し、新たに心から信頼し、新たに歩み出していくのです。この主なる神を認識し心から信頼する者に、罪の力は最終的に決して打ち勝つことはできないのです。(詩篇37:24)(Ⅱコリント4:8~9、14)

 

 「我は信ず」主なる神への確かな認識と心からの信頼をもち、三位一体なる神の祝福を受け、今日ここから新たに立ち上がり、歩み出し、主イエスの証人として、神が置いて下さっているその場へと遣わされて参りましょう。