聖書メッセージ『全能の父なる神』(Ⅰヨハネ3:1)(使徒信条2)

聖書箇所 Ⅰヨハネ3:1

3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

 

説教要旨

今日は「全能の父なる神を信ず」を見ていきます。日本語では「天地の造り主」が先ですが、原文では「全能の父なる神」が先です。

神が、父なる神であることの第一は、御子イエス・キリストの父なる神であられるということです。神は、イエス・キリストを「わたしの愛する子(マタイ3:17他)」と呼ばれ、イエス・キリストは、父なる神を「私たちの父」ではなく、「わたしの父(マタイ11:27他)」とお呼びになられました。イエス・キリストは、「わたしと父とは一つです(ヨハネ10:30)」と本質的に一つであり、完全な深い愛の交わりの内にあることを仰せられました。第二は、イエス・キリストの父なる神が、私たちの父なる神となって下さったことを示しています。私たち人間はすべて、神に創造され生かされているにも関わらず、神に高ぶり、神から離れ、罪の力に支配され、神の御怒りを受けるべき子らです。しかし、神は、素晴らしい愛を私たちに与えて下さいました。(Ⅰヨハネ3:1)「御父の愛」は、独り子をなだめの供え物として遣わし、裁かれ、私たちを赦し、神の子どもとして下さったのです。(Ⅰヨハネ4:9~10)「私はイエス様を信じた。でも、信仰が揺れ動くし、失敗も弱さもある。だから、神の子どもかどうか確信できない。」そんな揺れ動きがあるのかもしれません。でも、それは、父なる神の測り知れない御愛と御子イエス・キリストの完全な贖いを自分の内で小さくしています。確かに自分を見たらそうであるかもしれません。でも、神が、私たちをキリストの故に、神の子どもとして下さったのです。その約束に沈潜したいのです。

 

続いて、「父なる神の私たちへの祝福」です。第一は、神は、私たちの存在そのものを喜んで下さっておられます。神と私たちの関係は、まずどこまでも、存在そのもの(BEING)に関わるものです。では、「行ない」が怠惰になってしまうのではないか。そうではありません。神の真実な愛、キリストによる救いに感謝し、神を愛し、罪を離れ、神の御心に生きようと、聖霊の力によって歩んでいくのです。いいえ。神ご自身が愛の交わりのうちに行ないをも備えて下さるのです。(エペソ2:10)(Ⅱテサロニケ2:17)第二は、私たちの日々の歩みを支えて下さることです。知らずの内に祈っても変わらないとし、ひたすら自分の思いや経験のみで歩を進めていることがあります。父なる神は、私たちを真にご存知で、祈りを聴かれ、一つひとつ道を備えて下さるのです。また、父なる神は、私たちを訓練なされるお方です。悲しみや苦しみを通らされ、練り清められるのです。私たちの高ぶりを砕き、神の御用と隣人の慰めのためにお取扱いになられるのです。(へブル12:5~12)第三は、私たちに天の御国という相続財産をご用意下さっておられます。私たちは、死を超えた、永遠の希望の中に生かされているのです。(Ⅰヨハネ3:2)

 

その父なる神の「全能性」を告白します。全能とは、気まぐれな自由奔放な神、まして横暴な神を示しているのでは決してありません。父なる神の聖い愛のご性質に基づいた全能性です。即ち、御子を与え、神の子どもとし、存在を喜び、聖め、最善の道を備え、訓練し、天の御国を相続させて下さる愛の御業において、神はなしえないことはないお方です。

 

日本人は古代から「まれびと(稀客)信仰」と「祟り信仰」を抱いてきたと言われます。でも、聖書を通しご自身を明らかに示して下さった真の神は、私たちを愛し、御子を与え、イエス・キリストを信じる者の罪を赦し、神の子どもとし、真実な祝福を願っておられる全能の父なる神です。順風の中で、試練と恐れの続く中で、全能の父なる神を心から信頼し、自らを神の御手に委ね、年の前半を終え、年の後半を迎えていきましょう。自分の心に様々な揺れ動きがあったとしても、キリストの故に「神の子どもとされていること」「天の父なる神の御手の中にあること」を確信し、父なる神の御愛とその導きに自らを一日一日お委ねし歩んで参りましょう。