聖書メッセージ『天地の造り主』(創世記1:1~5)(使徒信条3)

聖書箇所 創世記1:1~5

1:1 初めに、神が天と地を創造した。

1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

1:4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

1:5 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

 

説教要旨

本日は、「天地の造り主なる神」の告白を見て参ります。「初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)」神の存在を証明しようとはせず、神がおられ、その神が天と地を創造したと宣言します。神は、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体なる神であられ、完全な愛の交わりの中におられました。そこで、交わりは充足されていました。神は、その愛の充足した交わりを開かれ、天地万物を創造されたのです。「天地の」とは、神以外の存在すべてのものを指します。神は、存在の源です。(ローマ11:36)唯一自存のお方であられます。

 

「地は茫漠として何もなかった。(v2)」いっさい何もなかったのです。「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。(v2)」何もない地に、神は、すべてを掌握し、すべてを支配下に置き、悠々として、事を起こす最善の時を見計らっていたのです。「神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(v3)」神は、言葉によって世界を創造されました。私たちは言葉を発する前に思いや考えがあります。神のご意思が言葉となり、その言葉によって存在となったのです。ここに私たちの存在の意義があるのです。「神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。(v5)」神は創造されたものを喜ばれ、それぞれに性質を与えられ、役割(務め)を与えられました。私たちの歩みは、根幹が抜け落ちてしまっているように思います。私たちの存在は、神のご意思の表れです。神は、私たちの存在を喜び、それぞれに性質と役割(務め)を与えて下さっておられます。しかし、私たち人間は、神から離れ、罪の力に支配され、罪の苦悩の内を歩んでおります。しかし、神は、その私たちをなお愛し、御子イエス・キリストを遣わされ、十字架で裁かれ、神に立ち返る救いの道をご用意下さり、罪を赦し、新しく創造して下さるのです。

 

「天地の造り主」との告白は、神の摂理(配剤)の信仰告白でもあります。神の摂理(配剤)とは、神が創造された世界を保持され、私たち生かし導いて下さっておられるということです。確かに、神は創造者で、私たちは被造物で、明確な一線があります。しかし、その神は、今も御手をもって万物を保持され、私たちを生かし導いておられるのです。神は、生きて現実に働かれているのです。私たちを覚え、ご存知で、祈りを聞かれ、一つひとつ善き道を備えて下さるのです。『青少年のためのキリスト教教理』という永井春子先生と言う方が書かれ、長年人々に愛されてきた書物があります。「問い:神さまのご支配とは、どんなご支配ですか。神さまはすべてのものを、み手でもってご自由に動かしておられるのでしょうか。答え:そうです。でもそれはロボットを動かすようにではなく、造られたものが自由に自分で活動しながら、しかも、いちばん深いところで神さまのみむねのままに支配されているようにです。」私たちは、「あの時の判断が…」そんな思いとなることがあります。また「何故こんな苦しみが起こるのか」「何故こんな苦しみが続くのか」と思わされることがあります。でも、それらを越えた一番深いところで、神の御旨のままに導かれているのです。でも、それは決して「冷たい運命」のようなものではありません。レールがひかれているのでもありません。父なる神は、私たちに対する深い真実な愛に基づいて御旨をなされ、神のご栄光と私たちの益のために最善をもって導いて下さるお方であるのです。ですから、私たちは逆境の時には神を待ち望み、順境の時には神に感謝し、将来については神を堅く信頼し、歩んで参りましょう。「こうして夕があり、朝があった。(v5)」「いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)」

 

 神を待ち望み、感謝し、堅く信頼し、年の後半を歩んでいきましょう。