聖書メッセージ『イエス・キリストを信ず』(ヨハネ1:1~5)(使徒信条4)

聖書箇所 ヨハネ1:1~5              

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 

説教要旨

今日からは、子なる神、イエス・キリストに対する信仰告白を見ていきます。「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」まず「イエス・キリスト」という名についてです。「イエス」とは、二千年前、この地上で歩まれたイエス・キリストの人としての名前です。「主は救い」との意味です。(マタイ1:21)イエスは、私たちを罪から救って下さるお方であられます。神に創造された私たち人間は、神に背き、神から離れ、罪の力に支配され、永遠の死に向かって生きていますが、イエスは、その罪から私たちを救って下さるのです。「キリスト」、これは「メシヤ」「油注がれた者」との意味で、神が特別な使命に召し、その働きにつかせる者を指します。旧約聖書においては、「預言者」「祭司」「王」に油が注がれました。神は、旧約聖書において、私たち人間に救い主を与えて下さると約束されましたが、その神の救いの約束が、このイエスによって実現したのです。ですから、イエス・キリストという名前そのものが、イエスこそ、神が私たち人間に与えて下さった救い主であるとの信仰告白的なものであるのです。

 

続いて、そのイエス・キリストを「その独り子」と告白します。イエス・キリストは、父なる神の独り子であられます。「独り子」とは、「唯一、無比な」という意味が込められています。「初めに、ことばがあった。(v1)」この「初めに」とは、「創造以前」を表します。「ことば」は、イエス・キリストを指します。「神とともにあった(v1)」、神と、顔と顔とを合わせるように向き合っていた、しかも創造以前からそうであったのです。では、創造以前から神とともにあるキリストは、神ではないのか。「ことばは神であった。…(v1、v2)」このイエス・キリストによりすべてのものが造られたのです。(v3)そして、イエス・キリストを独り子なる神と述べるのです。(v14)(v18)主イエスは、仰せられました。「わたしと父とは一つです。(ヨハネ10:30)」そして、神の独り子との告白に続く形で、「我らの主」との告白が続きます。

 

「主」は、新約聖書が記されたギリシャ語では「キュリオス」という言葉ですが、旧約聖書のヘブル語では「ヤハウエ」という言葉で、旧約聖書のギリシャ語訳聖書70人訳聖書では「ヤハウエ」を「キュリオス」とし、その言葉を、イエス・キリストに新約聖書は、当てているのです。イエス・キリストは創造主であられ、万物の支配者であられ、私たちの人生のありとあらゆる領域において主権者であられます。そして、「我らの」と述べますが、イエス・キリストは、ご自身の尊い血潮によって私たちを罪の中から贖い出し、ご自身のものとし、とともにあって下さるのです。

 

イエス・キリストの働きは、「預言者」「祭司」「王」の働きです。旧約時代において「油注がれた者」とは、「預言者」「祭司」「王」でしたが、イエス・キリストは、この三つのお働きを完全になされたのです。主イエスは、神を説き明かすお方であられる真の預言者でした。(v18)いいえ。神の言葉そのものであられ、神の私たちを罪から救おうとする御思いがイエス・キリストであられました。また、イエス・キリストは、神の前に私たちを執り成す真の祭司でした。イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちを罪から救うために来られ、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり死なれ、神の裁きをお受け下さり、贖いの御業を完全に成し遂げて下さいました。そして、イエス・キリストは、真の王であられます。十字架の死に打ち勝ち復活され、私たちを罪の支配から解放し、弱き私たちを決して見捨てることなく伴い、慰め、時に戒め、やがて再び王の王としてこの地に来られ、私たちを神の永遠の御国へと導き入れて下さるのです。

 

「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」私たちは、私たちを愛して下さっておられるイエス・キリストに信頼し、罪の中から救い出されましょう。また、日々、罪の闇から救い出して下さるイエス・キリストに拠りすがり、いのちの光の中を歩ませていただきましょう。