聖書メッセージ『主は苦しみを受け』(ヨハネ19:28~30)(使徒信条6)

 

聖書箇所 ヨハネ19:28~30          

19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。

19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

 

説教要旨

本日は、主イエスの十字架の死、「受難」についての告白を見て参ります。使徒信条は、「受肉」の告白から、主イエスのご生涯や公の働きには一切触れず、「受難」の告白へと繋がっていますが、「苦しみを受け」との告白には、主イエスのご生涯すべてが「苦しみ」、即ち十字架に向かうものであったことが含まれています。主イエスの誕生、成長、公生涯すべては、ご自身のいのちが失われる苦しみの歩みでした。でも、悲壮感漂う歩みではなく、希望に満ちた歩みでした。(へブル12:2~3)

 

「ポンテオ・ピラトのもとに」これは、主イエスの十字架の死は、歴史的出来事であったことを示しております。

続いて「苦しみを受け」という事柄が、三つ告白されます。第一は「十字架につけられ」十字架刑は、当時のローマ帝国の極刑の道具で、極悪人が処せられる最も恐ろしい刑でした。また、ユダヤ人から見るならば、十字架刑は、「神にのろわれた者」を示しました。神の祝福を失い、神に裁かれ、辱めを受け、捨てられたことを表しております。第二は「死にて葬られ」主イエスは、確かに十字架上で死なれたのです。「葬り」は、肉体の死が確かなものであったことを表しております。第三は「陰府にくだり」「陰府」とは、神と全く分離した状態を指しております。もはや神をあがめ得ず、神の御顔を仰ぎ得ず、神との交わりを全く断たれた様のことです。主イエスは、十字架上で「わたしは渇く(v28)」と仰せられました。父なる神に全く見捨てられた渇きです。主イエスの十字架は、神が独り子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに裁かれ、完全に見捨てられた出来事でした。主イエスは、父なる神の救いのご計画に従順に従われ、自ら十字架の苦しみを負って下さったのです。主イエスは、最後「完了した(v30)」と仰せられました。主イエスは、神の裁きを受け切られ、神に捨てられ渇き切られ、神の贖いの御業を完了して下さったのです。「十字架につけられ」「死にて葬られ」「陰府にくだり」は、主イエスの苦しみの徹底性、ご自身が罪とされたことの徹底性が告白されています。主イエスは、神の裁きを受け、肉体的に死なれ、神に全く見捨てられたのです。であるので、主イエスは、魂を深く傷つけているいかなる私たちの罪をも赦し、罪の圧倒的な力から解放し、徐々に私たちを造り変えて下さることができるのです。また、主イエスは、神から引き離されたような苦しみの中にある私たちと共に歩んで下さることができるのです。報われない苦しみ、蔑まれる痛みを主イエスは、本当に理解して下さり、そこにともにあって慰め、癒し、立たせて下さるのです。そして、主は、私たちの死においても共にいて下さるのです。J.I.パッカー「キリストは、私たちを導かれるのに、ご自分が以前通り過ぎられたところより暗いところを通されることはない。」

 

イエス・キリストの十字架の死は、神の贖いの歴史的御業であり、神の完全な贖いの御業です。ですから、イエス・キリストは、この歴史の中に生き、罪に汚れ、患難の中に生きる私たちをも理解し、あらゆる罪を赦し、聖め、悲しみの中で慰め、そして、死においてもともにいて、天の御国へと導いて下さいます。ですから、私たちは、主イエスに自分の罪の重荷と今の魂の苦しみをもっていき、罪の赦しをいただき、魂の平安をいただき、天の御国への確かな希望をもって力強く歩ませていただきましょう。そして、主イエスが私たちを愛し、私たちのためにいのちを与えて下さったことを覚えながら、私たちも、この8月、フランシスコの平和の祈り「主よ、わたしを平和の器とならせてください。…ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは…自分のからだをささげて死ぬことによってとこしえの命を得ることができるからです。」をもって愛の歩みへと、謙りの歩みへと導かれて参りましょう。