聖書メッセージ『主は神の右に座したまえり』(へブル1:1~3)(使徒信条8)

聖書箇所 へブル1:1~3          

1:1 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、

1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 

説教要旨

本日は、「昇天」「着座」の告白を見ていきます。主は「天に昇り」と告白します。イエス・キリストは、十字架で死なれ、死に打ち勝ち復活され、四十日間、弟子たちにご自身を現わし、弟子たちが見ている中で天に昇られました。「天」とは、「空」や「物理的空間のどこか」ではなく、神の住まうところです。昇天は、十字架の苦しみを経て復活されたイエス・キリストが今も生きておられる「生ける主」であられることを表しております。二千年前の過去の人というのではありません。信仰は、イエス・キリストの残した教えを学び、人生の模範や生きる術とするということではなく、今生きたもうイエス・キリストへの人格的信頼です。また、昇天は、私たちも同じく苦しみを経て栄光の天へと帰ることを示す希望です。私たちの地上の日々は、病、働きの労苦、人間関係、信仰の闘い、罪の葛藤など様々な患難があり、呻いています。でも、イエス・キリストが十字架の苦しみを経て復活され天に昇られたように、私たちは世にあっての患難と信仰の闘いを経て、天の御国へと迎え入れられ、神の懐に抱かれるのです。神ご自身が目の涙をすっかり拭い去って下さり、神の大きな喜び、平安、祝福に与っていくことができるのです。

 

続いて、主は「全能の父なる神の右に座したまえり」と告白します。イエス・キリストは、天に昇られ、全能の父なる神の右に着座され、今着座されておられます。これはイエス・キリストの現在に関する告白です。「神の右の座」とは、「天」が物理的空間を示さないと同様に、神の右という場所を示すのでなく、イエス・キリストが神の代理人として、支配者の地位に着いておられることを示しております。イエス・キリストは、父なる神から神の権威、主権、力を全く委ねられ、私たちとこの地を支配しておられるのです。「座す」とは、支配の持続性、永続性を示しております。その支配は、天から下られる前の万物の創造者としての摂理的な統治の働きを言うだけではなく、十字架で架かり死なれ苦しみを経て復活された救い主としての主権、支配の告白です。

 

では、その支配者なるイエス・キリストは、救い主なる支配者として、どのようなお働きを今なしておられるのでしょうか?本日のへブル書の御言葉でも、三つの働きが示されております。第一は、預言者の働きです。(v1、v2)イエス・キリストは、聖霊を送られ、今御言葉を通して語られているのです。(ヨハネ16:6~15)第二は、王の働きです。(v3)旧約聖書において、王の働きは、自分の民を治め導き、民の敵と闘い、勝利を与えることでした。イエス・キリストは、万物の支配者として、この世界を治め(エペソ1:20~21)また、特に教会との関係において、教会のかしらとして、私たちを治めておられるのです。(エペソ1:22)イエス・キリストは、教会と私たち一人ひとりを、御言葉によって治め導き、闘い、勝利を与え、守って下さるのです。私たちは、イエス・キリストにあって楽観的に生きることができるのです。イエス・キリストは、すでに世に打ち勝ち、私たちを治め、導き、闘い勝利を与えて下さるとの信頼からの楽観です。どんなに暗闇に覆われていても、神は、すべてのことを合い働かせて益とし、イエス・キリストはともにあって勝利を与えて下さるのです。第三は、祭司の働きです。(v3)イエス・キリストは、十字架の死と復活により贖いの御業を成し遂げ、救いの道を開き、そのイエス・キリストが、今も生きて私たちのために執り成して下さっておられます。(へブル7:24~25)イエス・キリストを信頼する者の罪を全く赦し、弱さを理解し、おりにかなった助けを与え、兄弟たちを力づける者として立たせて下さるのです。

 

今も確かに生きて私たちを支配し、聖霊により御言葉において語りかけ、治め導き守り、そして執り成して下さるイエス・キリストに堅く信頼し、栄光の御国への希望を抱いて、信仰の喜びをもって歩んでいきましょう。