聖書メッセージ『罪の赦し』(ローマ3:21~30)(使徒信条12)

 

聖書箇所 ローマ3:21~30                 

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

3:28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

 

説教要旨

本日は、聖霊の働きの実である「罪の赦し」についての告白を見て参ります。神の独り子キリストが十字架で死なれ復活されたことにより成し遂げられた神の救いの御業が、私たちのものとなるのは聖霊によります。

 

「罪」とは、何でしょうか。聖書は、私たち人間を神に造られた高価で尊い存在と告げます。と同時に「罪人」と告げます。「罪」とは、「ハマルティア」という言葉で、「的を外していること」を意味します。神の下で、神に向かって生きる者として造られた私たちが、神に背を向け、神という的を外して生きている状態のことです。そして、神から離れ、人間の魂は、罪の力に支配され、神の御心に生きることができない者です。(ローマ1:21、1:29~31、3:10~18)神は、聖なる神であられ、正しいご性質の故に人はみな神の裁きの下にあるのです。(v19)罪が問われるかをお決めになられるのは、私たちではなく、私たちを創造された神です。

 

「罪」が神に背き、神から離れた状態を指しているならば、「救い」は神との関係の回復です。神との関係の回復は、「罪の赦し」なくしてはありません。当時のユダヤ人は、神との関係が回復するには、神の正しい基準に見合うように善い行ないをなすことと考えていました。しかし、「律法を行なうことによっては、だれひとり、神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(v20)」しかし、続きます。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(v21)」この「神の義(v21)」とは、「神の正しさ」とともに「罪人を義として下さる恵みの義」を指しております。(v26)罪を正しく裁かれる神の正義が全うされ、かつ、罪人を義として下さることが、どのように示されたのでしょうか。神の一方的な恵み、なだめの供え物となれられた御子イエス・キリストの贖いの故でした。(v23~v25)ジョン・マーレーは「なだめの供え物が備えられることにおいて、神の正義と、罪人の義認は一致し、合体する」と述べました。では、十字架で身代わりに死なれ成し遂げられたイエス・キリストによる神の救いをいかに自分のものとすることができるのでしょうか?「信仰」によります。(v22)(v26)(v28)神がイエス・キリストにより成し遂げ、差し出された罪の赦しを受け取る「手」、それが信仰です。

 

義認に伴う祝福をパウロは述べます。過去、現在、将来の祝福と言われております。第一に、キリスト者は、神との関係が回復せられたのです。(5:1)(過去)第二に、単に和解せられたというのではなく、神との愛の交わりの中に置かれ、造り変えられていくのです。(5:2)(現在)「義認」は神が罪を認めないと宣言して下さることであり、私たちの内に罪がなくなることではありません。キリスト者は「義人にして同時に罪人」です。でも、神との愛の交わりの中で、失敗することもありますが、ゆっくりとイエス・キリストに似る者へ、神のご性質を映し出す者へと造り変えられていくのです。聖霊の働きです。その途上で失敗や罪を犯すこともありますが、決して義認の約束がなくなってしまうことはありません。かと言って、ならば「罪を犯してもよい」と開き直る歩みではなく、神の前に罪を告白し、聖めを求め続けていく歩みであり、聖められていく歩みです。(6章)第三に、神の栄光、天国への確かな希望が与えられていくのです。(5:2)(将来)

 

イエス・キリストの贖いの故に成し遂げられた救いを、信仰の手を差し出し、受け取っていただきたいのです。そして、信仰によって私たちは罪赦され、神との関係の回復を与えていただきました。義認、罪の赦しの約束は決して変わりません。罪赦された測り知れない御恵みを感謝し、いよいよ神と交わり、聖霊に拠り頼みながら、聖められることを求めて参りましょう。今の内なる罪との闘いを、正直に神の前にもっていき、聖霊の助けを切に求め、内側から深く造り変えていただきましょう。