聖書メッセージ『からだのよみがえり』(Ⅰコリント15:20~28、35~44)(使徒信条13)

聖書箇所 (Ⅰコリント15:20~28、35~44)   

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。

15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。

15:27 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。

15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

 

15:35 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」

15:36 愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。

15:37 あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。

15:38 しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。

15:39 すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。

15:40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、

15:41 太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。

15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

 

説教要旨

先回「罪の赦し」を見ました。私たちは、キリストを信じ、キリストの贖いの故に、価なしに神の前に義と認められたのです。罪の赦しが「すでに」私たちのものとせられたのです。でも「義認(罪の赦し)」は罪が私たちの内になくなることではなく、神との交わりの中で少しずつ造り変えられていきますが、なお罪の性質が残っています。救いは「いまだ」完成していないのです。私たちは「すでに」と「いまだ」の間に生きております。でも、救いの完成が来ます。罪汚れたこの魂と体が全く聖められ罪から解放された栄光の体に変えられる時が来ます。イエス・キリストのご再臨の時、イエス・キリストは、私たちを栄光の体へと復活させて下さいます。

 

コリント教会において「死者の復活はない」「死がすべての終わりである」との考えを持っていた者たちがいました。パウロは、死がすべての終わりではない、体の復活があると告げました。その保証は、イエス・キリストの復活です。(v20~v22)キリストを信じた私たちも、キリストに連なる者として、同じように栄光の体に復活せられるのです。では、栄光の体とは、どのような性質の体なのでしょうか?一粒の種は地に落ちて、自分の姿を崩した後、新しい命を萌え出させ、芽を出し、葉を繁らせ、花を咲かせます。同様に、神は、人が土に帰した後に、彼に新しい命を与え、体の復活を与えて下さるのです。そして、種と芽の間に連続性と非連続性があるように、現在の体と復活の体も連続性と非連続性があります。連続性:(v38)私は私として復活するのです。何かに変わるわけではありません。と同時に非連続性:(v42~v44)今の体との質的な相違もあります。「卑しいものから栄光あるものに」「弱いものから強いものに」「血肉のからだから御霊のからだに」復活せられるのです。痛みや苦しみ、そして罪の力から全く解放された栄光の体に復活せられるのです。

 

イエス・キリストは、日々私たちに罪の力に勝利を与え、また、肉体の死が絶望ではなく、天の御国への出発の時として下さいました。(v57)この栄光の希望を待ち望みながら、パウロは、勧めます。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(v58)」「主のわざ」とは、御言葉に聴くこと、祈ること、キリストを宣べ伝えること、キリストの御体なる教会にお仕えしていくことと同時に、私たちの日々の一つひとつの主にある務め、仕事、家事、看病、介護、愛の業、愛の言葉でもあります。その歩みは「すでに」と「いまだ」の間の歩みですので、「勝利と闘い」があり「感謝と嘆き」があります。でも、ここでパウロが「私たちの主イエス・キリストによって(v57)」と「私たちの(v57)」と記していますが、イエス・キリストが私たちの羊飼いとしてともにあって導いて下さいます。「からだのよみがえり」の告白は、天の御国の希望の告白であるとともに、この闘いの日々にイエス・キリストが羊飼いとして共にいて私たちを知り、支え、守り、道を備え、天国へと導き入れて下さるとの告白と言うこともできるでしょう。

 

主イエスは、ゲッセマネの園で弟子たちに仰せられました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。(マタイ26:41)」私たちの肉体の弱さをご存知の主イエスに、そして、死なれ死に打ち勝ち、私たちに勝利を与えて下さる主イエスに、正直に自分の弱さと重荷を祈りの内に持っていき、天の御国「からだのよみがえり」を待ち望み、歩を進めていきましょう。代わり映えのない繰り返しの日々であるかもしれません。闘いの中で忍耐を必要とし、弱さを覚える日々であるかもしれません。でも、この罪との闘いの体から解放され、栄光の体によみがえる大いなる希望を抱き、羊飼いなるイエス・キリストのご恩寵に支えられ、主の前で、今日の主のわざに励んで参りましょう。