聖書メッセージ『主に信頼して』(マタイ2:13~23) (2017年最終主日礼拝)

聖書箇所 マタイ2:13~23           

2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、

2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。

2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。

2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。

2:18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」

2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。

2:20 「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」

2:21 そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。

2:22 しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。

2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。

 

説教要旨

2017年最後の主日礼拝です。本日の御言葉は、東方の博士来訪後の幼子イエス・キリストとその家族の歩みが記されています。博士来訪後、三つの出来事がありました。主イエスとその家族のエジプトへの避難(v13~v15)、ヘロデ王によるベツレヘムの二歳以下の男子の殺害(v16~v18)、主イエスとその家族のイスラエルへの帰還・ナザレへの定住です。(v19~v23)これら三つの出来事を、マタイは預言の成就として記しています。第一は、ホセア書11:1で、ホセアは神がイスラエルの民をエジプトから脱出させて下さった御業を回顧していますが、その言葉をマタイは主イエスがイスラエルの民と同じようにエジプトから連れ出されることとして引用しています。第二は、エレミヤ書31:15で、イスラエルの民がバビロニアに連れて行かれることの嘆きとベツレヘムの二歳以下の男子の殺害の嘆きを重ねています。しかし、エレミヤ書の預言は、直後にはバビロニア捕囚解放が予告され、さらには新しい救いの契約の約束へと続いています。旧約の歴史において、イスラエルの民の苦しみと神の救いの大きな出来事は、エジプト脱出とバビロニア捕囚解放の二つでした。マタイは、主イエスがイスラエルの民と同じ道を歩まれ、苦しみを経験され、助け出されることを述べたのです。即ち、主イエスは「真のイスラエルである」と示し、イスラエルの民が神の守りにより救い出され使命に生きたように、主イエスは神の守りにより救い出され、神の使命に生きられることを示したのです。そして、主イエスがナザレ村に定住したと続いているのです。(v23)「ナザレ人」とは蔑みの言葉ですが、主イエスは嘲られ、罵られることを示しております。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救って下さる方です。(1:21)」主イエスは、「まことのイスラエル」となられ、イスラエルの民の罪を負われ、ご自分が神に裁かれ、砕かれ、私たちの罪を赦し、罪から救って下さるお方であられるのです。(1:21)

 

また、その救い主は、私たちとともにおられる神です。(1:23)ここで、繰り返し「幼子とその母(v13、v14、v20、v21)」と、「幼子」が中心になっています。異国エジプトに下ることは、ユダヤ人の歴史から見るならば、後退の道でした。ヘロデ王によるベツレヘムの二歳以下の男子の殺害は、神がこの世界を治めておられるとは到底思えない出来事でした。イスラエルへの帰還・ナザレへの定住は、マリヤが身篭ったことに対する軽蔑の目が多くあった中に置かれたことでした。死の陰の谷を歩く道の真中に「幼子」イエス・キリストはともにおられたのです。後退、世の力が圧倒しているように見える不条理、蔑み、そこにこの年主イエスは、ともにいて下さった、そして、迎える年も主イエスはともにおられるのです。

 

主イエスがともおられる歩みにおいて大切なことは、今日を主の御言葉に従っていくことです。遠い先ではなく、今この時です。ここで示されていることは、ヨセフの信仰の姿でしょう。「立って、…連れて」ということが繰り返されています。(v13、v14、v20、v21)ヨセフの従順を示しているでしょう。それを見習う者とならせていただきたいのです。「立って、…連れて」という言葉は、「ヨセフは眠りからさめ、妻を迎え入れ(1:24)」の「眠りからさめ、迎え入れ」と全く同じ言葉が使われています。マリヤのことで戸惑い、苦しむヨセフに、神は御使いを送られ語られ、眠りから覚め、妻を迎え入れました。2章に入っても、主の御言葉が先に語られ、ヨセフは応じていったのです。主がともにおられ、ヨセフの従順を引き出して下さり、主の御言葉に従順に従っていく歩みであったのです。ヨセフは、早くに死んだと言われております。人間的に見るならば、何故との思いがよぎります。でも、神が私たちに願っておられることは、その所その所で、ともにおられ、従順を引き出して下さる主に従順に一歩一歩従っていくことです。主はその私たちに「良くやった」と御声をかけて下さるのです。