聖書メッセージ『御父は愛を』(Ⅰヨハネ3:1) 

聖書箇所 Ⅰヨハネ3:1                  

3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

 

説教要旨

年間標語である「神に練り聖められ、豊かな所へ導かれる教会(詩篇66:10~12)」を覚えながら、数回にわたって「神の子ども」ということを主題として御言葉に聴いていきます。ここで、使徒ヨハネは、大きな驚きをもって記しています。原文では、「見よ、何という愛」との言葉から始まっております。私たちが、神の子どもとされるために、神はどんなに素晴らしい愛を与えて下さったかと驚嘆し、それを見よ、考えよと述べております。私たち人間はみな、神に創造され、神の御手の内に生かされている者ですが、生まれながら神の子どもではありません。神に背を向け、神から離れ、神に敵対する「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」です。(エペソ2:1~3)人は、罪の故に神に裁かれ、今、神との交わりを失っており、また、生涯を終え、神の御前に立たせられる時、永遠の罪に定められます。しかし、神は、その御怒りを受けるべき子らである私たちを、神の子どもと呼ばれる者、いいえ、事実、神の子どもとして下さるのです。神の前に罪赦されるだけではなく、神の子どもとされるのです。神は、私たちを神の子どもとし、「天の父」と呼び祈ることができる者とし、歩みを守り、道を備え、造り変え、練り聖め、天の御国の相続者として下さいます。何が私たちを神の子どもとさせて下さるのでしょうか?父なる神の人知を越えた愛の故です。(Ⅰヨハネ4:9~10)神は、ご自身の大切な独り子イエス・キリストを、二千年前、この世界に与えて下さいました。私たちが神を愛したからではなく、神は私たちを一方的に愛し、御子を「なだめの供え物として」与えて下さったのです。神は、ご自身の独り子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに裁かれ、私たちに完全な罪の赦しの道をご用意下さいました。神の側の大きな犠牲があったのです。愛の御苦しみがあったのです。神の愛は、ほんわかした甘い愛ではないのです。真実な厳粛な愛、私たちを罪の中から救い、神の子どもとしようとする見返りを求めない無償の愛です。このイエス・キリストにおいて成し遂げられた神の救いを、信仰という手を差し出す時に、神の前に全く罪赦され、神と和解し、神の子どもとせられ、キリスト者は、事実、今、確かに神の子どもとせられているのです。

 

ヨハネは、「御子イエス・キリストを与え尽くされた神の御愛を見よ」と促しています。「世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(v1)」と続いておりますが、この手紙の宛先のキリスト者たちは、信仰故の闘いの中にいたのでしょう。(v13参照)私たちも、この世において、信仰故の闘い、それだけではなく、日々の生活において様々な試練があります。しかし、キリストにある神の御愛は、闘いや試練の中で、そして死を前にしても、私たちを支えます。また、私たちは、神の子どもとしての歩みや生き方があります。3節以降に続くことは「罪の中に留まらない」「兄弟愛」ということが教えられております。でも、神の子どもとして生き方や歩みは、キリストにある神の驚くべき愛から生まれ、出てくるのです。神の愛が私たちを変えるのです。「ルターが言っている恵みは、私たちの心の中に働きかけ、私たちの心をつかみ取るようにして導き、動かし、やがて私たち自身を変えていくという、動きのある「恵み」です。(『五つの“ソラ”から』吉田隆」使徒ヨハネは、福音書の中で自らを「イエスが愛された弟子」と繰り返し述べました。いかなるものも神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:37)

 

年間標語は、信仰成長のことに主眼が置かれております。でも、試練の中での土台、聖化の土台は、神の御愛です。御怒りを受けるべき子らであった私たちを、神の子どもとせられた神の驚くべき愛を見て、見続けて、神の御愛、キリストの十字架の死による罪の赦しと復活によるいのちの力に支えられ、導かれ、闘いの中を歩み、造り変えられて参りましょう。