聖書メッセージ『神の相続人と』 (ローマ8:14~25) 

聖書箇所 ローマ8:14~25                

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 

説教要旨

本日は、「神の相続人」について見て参ります。子どもは、親の相続人であり、親から財産を相続します。神の子どもは、神の相続人であるのです。何を相続するのでしょうか?「栄光(v17)」「将来私たちに啓示されようとしている栄光(v18)」天の御国を受け継ぐのです。イエス・キリストは、天の御国を「祝宴(喜び)」と述べ、パウロは、Ⅰコリント13章で、神と顔と顔とを合わせて見ると記し、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。」と述べました。天の御国を相続するとは、神との交わりにおける完全な喜びの祝福、神の完全な愛の交わりの祝福を受け継ぐということです。人は「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となってい(へブル2:15)」ます。死は、罪の結果であり、死に対する恐れは、神の前で自分の罪の問題が解決され、初めて真に解放されるのです。神は、御子イエス・キリストの十字架の贖罪の故に罪を赦し、神の子どもとし、天の御国を受け継ぐ者として下さいます。死は、イエス・キリストにあって、天の御国への入り口です。クリスチャンは、死への恐れや悲しみが全くないのではないでしょう。でも一番の究極的なところにおいて、イエス・キリストを信じる前にはなかった死に対する平安、天の御国への確かな希望をもって生きていくことができるのです。

 

その天の御国を相続する前の今の歩みには、「闘い」や「呻き」があるのです。「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている(v17)」クリスチャンの基調は喜びの歩みです。しかめっ面して、難しい顔をして歩むのではなく、内から出る温かな喜びをもって笑みつつ歩むのです。しかし、同時にクリスチャンとして生きることは、イエス・キリストと苦難をともにすることです。17節の「苦難」とは、イエス・キリストを証していく闘い、イエス・キリストの教会を建て上げていく闘いを表しています。(Ⅱコリント11章、コロサイ1:24)また、そうした信仰故の苦難だけではありません。パウロは、v19~v22で被造物全体の呻きを記した後、v23でキリスト者の心の呻きを記しております。(v23)それは、体に関することです。一つは、体のもろさによる呻きです。病、老い、障碍、パウロも目の病又は障碍があったと言われております。また、もう一つは、罪の性質による呻きです。イエス・キリストを信じ、罪赦されましたが、なお、私たちの内には罪が残っており、いつもその激しい闘いや誘惑が体の内にあるのです。(7章)しかし、それは、決して独りでの闘いではありません。「私たちがキリストと、栄光をともにうけるために苦難をもともしているなら(v17)」イエス・キリストがともにおられるのです。イエス・キリストが、私たちの味方としてともに苦しみ、ともに闘って下さっておられるのです。いいえ。イエス・キリストだけではありません。聖霊も「言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして下さいます(v26)」こうして、苦難を経て天の御国の栄光が待っています。栄光の体に贖われ、神の完全な喜びと愛の交わりに与ることができるのです。苦しみは「産みの苦しみ(v22)」であり、天の御国の朽ちない希望があるのです。その望みの故に忍耐が与えられていくのです。「忍耐をもって熱心に待ちます。(v25)」

 

この朝、イエス・キリストを信じ、神の子どもとされたことは、天の御国を受け継ぐ者とされたこと、私たちの国籍は天にあることを覚え、そこに望みを堅く置きましょう。笑みつつの歩みですが、同時に信仰故の苦難や肉体における呻きがあります。しかし、イエス・キリストがともにいて下さり、聖霊が私たちとともに深く呻き、助けて下さることを信頼し、聖霊に拠りすがり忍耐をもって喜びの内に歩ませていただきましょう。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。…キリストと栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。(v14~v17)」キリストの苦難をもともにして参りましょう。