聖書メッセージ『神の愛の聖め』(Ⅰヨハネ3:1~12)         

 

聖書箇所 Ⅰヨハネ3:1~12               

3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

3:4 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

3:5 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。

3:6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

3:7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

3:8 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

3:9 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

3:10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

3:11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

 

説教要旨

v1は、神の子どもの出発、v2は、神の子どものゴールが記され、v3からは、その途上の歩みが記されています。「神の愛の聖め」を見て参ります。「自分を清くします(v3)」とは、続く文脈から見ますときに、「罪の中に生きず、神の御思いに従って生きていく」ことです。但し、ヨハネは、その自分ではなく、イエス・キリストに目を向けさせています。「キリストが現われたのは罪を取り除くためであった(v5)」神の御子イエス・キリストが二千年前この地に来られ、十字架で死なれたのは、私たちの過去の罪を赦して下さるため、また将来私たちを永遠の天の御国へ導き入れて下さるためだけではなく、今私たちを罪の支配から解放して下さるためです。「神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすため(v8)」キリストは、この地に来られ、十字架で死なれ復活され、罪の源である悪魔の力を完全に打ち壊して下さいました。それが私たちの聖めの土台です。イエス・キリストは、罪のないお方であるので、神の子どもは、罪の内を歩まないのであり、罪の内を歩む者は、悪魔の子であるのです。であるので、神の子どもか悪魔の子どもかは、義を行なうこと、隣人を愛することで区別されるというのです。(v10~v12)聖め、信仰の成熟とは、聖書知識が深まる、伝道ができる、奉仕ができる、祈ることができる、それらも尊いことですが、中心は、愛に生きていくことです。カインは、自らの捧げ物が神の目に留まらず、弟アベルの心からの捧げ物が神の目に留まったとき、顔を伏せ、神の語りかけを退け、アベルを野に連れ出し、殺しました。愛することは、「○○しないこと」と否定の形で表すことができます。(出エジプト20章、Ⅰコリント13章)「怒らないこと」「妬まないこと」「憎まないこと」です。私たちは、自らの罪が示されるのではないでしょうか。いいえ。神の前に罪を悲しまなければならないのではないでしょうか。心密かに妬んでいることや自分の怒りを制せられないことがあります。そういう中で「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪の内を歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです(v6)」との御言葉を見ますと、自分の救いに対する疑りが起きてきます。クリスチャンになっても罪を犯してしまう自分がおります。自分は救われていないのではないか。悪魔の子ではないか。「神の種(v9)」聖霊が私の内に住んでいないのではないか。しかし、ヨハネは、救いの確信や聖霊の内住を試す目的で、この手紙を記しているのではないのです。逆です。(Ⅰヨハネ5:13)あなたがたは、神の子である。罪との闘いがあり、罪に打ち負けることもある。でも、永遠のいのち、イエス・キリストを持っている。聖霊が内住している。聖めは、一にも二にも、自分の力によるのではなく、永遠のいのちイエス・キリスト、聖霊による。だから、イエス・キリストの内に留まるようにと告げているのです。キリストの内に留まるとは、どういうことでしょうか?第一に自分の内にある罪を認め、悲しみ憎み、神の前に告白することです。罪を正当化するのでもなく、自分の内で抱え続けるのでもなく、神の前に告白するのです。(Ⅰヨハネ1:9)第二に十字架に架かり、悪魔の力を全く打ち壊して下さったイエス・キリストに、そして、キリストが送って下さった聖霊によりすがっていくことです。生活の中に御言葉に聴き祈る静まりの時を持つこと、また生活が祈りの中に置かれていくことです。そのようにしてキリストの内に留まる者は、誰でも、罪を犯すことがあっても、罪の中に留まることはなく、救いの光の中を歩むことができ、怒り、妬み、憎しみの歩みが少しずつ変えられていくのです。それでも失敗することがあります。そうしたら1:9に戻って、父なる神に罪を告白し、父なる神は、その罪を赦し、私たちをすべての悪から聖めて下さるのです。いつでも、主にあって再スタートができるのです。こうして、徐徐に、深く、神の愛の内に聖められていくのです。キリストを見上げ、呼びましょう。