聖書メッセージ『わたしは、よみがえりです』(ヨハネ11:17~46)

聖書箇所 ヨハネ11:17~46

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。

11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。

11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。

11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。

11:30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。

11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」

11:35 イエスは涙を流された。

11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」

11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

 

説教要旨

イースターおめでとうございます。ベタニヤ村のラザロが重い病気になり、姉妹マルタとマリヤは、主イエスに助けを求め、使いを送りました。しかし、主イエスは、その所に二日間いました。そして、「イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた(v17)」のです。マルタは、イエスが来たことを知り、迎えに出、何故早く来てくれなかったのかと訴えました。また、呼ばれたマリヤも、姉マルタと全く同じ訴えをしました。(v32)死は人を絶望に伏させ、人は死に対し無力です。

 

しかし、主イエスは、人間を絶望に伏させる死に対しました。ラザロの死に絶望する人々をご覧になり、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、涙を流されました。(v33、v35、v38)憤りは、人間を絶望に伏させる死に対してのものでした。涙は、死によって絶望に伏せている人間への断腸の思いからでした。聖書は、罪から来る報酬は、死であると告げます。死の源は、罪です。神が創造された世界において最初から死があったのではなく、アダムとエバが神の命令に背いて以来、死がこの世界に入ったのです。聖書において、死は、三つの意味があります。第一は、神との交わりが失われていることです。綺麗に咲いているが、いのちを失っている切り花のようです。(エペソ2:1)第二は、肉体の死です。「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となった人人(へブル2:15)」第三は、永遠の死です。肉体の死を迎え、神の前で正しく裁かれ、罪の故に神との交わりを全く失った永遠の死に定められるのです。

 

しかし、イエス・キリストは、その死に勝利されました。(v39~v44)死んだラザロを生き返らせたのです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに死なれ、そして、死に打ち勝ち復活され、死の下にある私たちに永遠のいのちを与えて下さるのです。肉体の死を迎えますが、天の御国に導き入れられるのです。キリストにあって肉体の死は、絶望ではなく、天の御国への入り口です。また、永遠のいのちとは、地上での生涯を終えて初めて与えられるのではなく、キリストを信じたその時から与えられるのです。私たちは永遠のいのちに生かされていくことができるのです。(Ⅱコリント4:7~10、16)私たちは、土の器で、もろいものです。しかし、キリストがその中に住んで下さいます。試練に会い、失望しますが、窮することはありません。肉体において様々な罪との闘いがありますが、罪の中に留まることはありません。日々肉体は衰えていきますが、内なる人は日々新たにされ、喜びと感謝をもって歩み、神の栄光を現わす歩みへと導かれていくのです。主イエスは「わたしたちの友ラザロ(v11)」と仰せられました。主イエスによって愛されていたラザロです。イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちの罪のために十字架で死なれ、死に打ち勝ち復活され、永遠のいのちを「やがて」そして「今」与えて下さるのです。

 

主イエスは、仰せられます。「このことを信じますか。(v26)」「もしあなたが信じるならば、あなたは神の栄光を見る。(v40)」「理解しますか」ではなく、「信じますか(v26)」でした。「理解するならば、神の栄光を見る」ではなく、「信じるならば、神の栄光を見る(v40)」でした。勿論闇雲に信じるのではりません。聖書を読み、神から与えられた理性で考え、迷い、イエス・キリストを知っていく必要があります。でも、理解しようとするだけでは、永遠のいのちの歩みに導かれません。パンは食して力となります。イエス・キリストは、いのちのパンです。イエス・キリストを信じる、イエス・キリストに信頼し歩み出していく。その時に、神の栄光を見るのです。

 

復活され、今生きておられるイエス・キリストに信頼し、死からいのちに移され、永遠のいのちの素晴らしい恵みに生かされていただきたいのです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。…このことを信じますか。(v25、v26)」