聖書メッセージ『神を恐れる』(使徒2:41~43)

聖書箇所 使徒2:41~43

2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。

 

説教要旨

昨週から、神の子どもとしての歩みを見、昨週は、土台となる「神を愛する」ことを見ました。神を愛することは、神の一方的な愛への応答です。本日は、神を愛するとは、神を恐れることであることを見ていきます。

 

今日の箇所は、最初のキリスト教会の姿が記されています。ペテロが聖霊を受け、エルサレムで、イエスこそ神が与えて下さった救い主であることを宣べ伝え、人々は悔い改め、イエスを信じ、洗礼を受け、教会が誕生しました。教会は、「使徒たちの教えをかたく守り」「交わりをし」「パンを裂き」「祈り」をなしていました。「一同の心に恐れが生じ(v43)」ました。この恐れは、神への恐れですが、「生じ(v43)」との言葉は、継続を表す形です。神への恐れが教会の基調となっていたのです。

 

「神を恐れる」という時に、聖書は、二つの意味合いで教えております。第一は、善悪を正しくお裁きになられる神を恐れることです。ペテロの説教を聞いた者たちは、罪を赦していただくためにどうしたら良いかと尋ねております。(v37)その土台にあるのは、罪を正しく裁かれる神への恐れでした。神は、聖いお方であり、罪を正しくお裁きになられるお方です。人の目は、誤魔化すことができます。しかし、神の目には、隠すことができません。神は、罪を即座に裁かれることがあるでしょう。また、そうなされないことも往々にしてあるでしょう。でも、それは罪を曖昧にされておられるのではなく、嫌い、悲しみ、何よりも私たちが悔い改め、神に立ち返ってくることを忍耐して待っておられるのです。第二に、神を恐れるとは、神への畏敬の念をもって恐れることです。神は創造者、主権者であり、私たちは被造物で、神に生かされています。神は、私たちを愛し、御子イエス・キリストの十字架の死の故に、罪を赦し、神との和解(平和)を与えて下さいました。でも、赦されたからと言って、神への畏敬の念の恐れを失ってはならないのです。イエスを信じた者たちの心に「恐れが生じた(v43)」のです。「あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます(詩篇130:4)」キリストの十字架により神に赦されているからこそ、神を畏れ敬っていくのです。神とあまりにも仲良くなり過ぎ、神への恐れを失った馴れ馴れしい信仰は、神の喜ばれることではありません。クリスチャンになっても、なったからこそ神を敬い、大切にし、第一にし、罪を避け、悲しみ、告白し、赦される恵みを知り、その神を敬い畏れていくのです。

 

初代の教会は、神への恐れが生じ、神への恐れの中で歩みが導かれていきました。では、その教会は、どのよう様子だったでしょうか。神を恐れると言うと、どこか窮屈で肩苦しい印象を持つかもしれません。(ルカ15:11~13)しかし、そうではありませんでした。与え合う歩みがなされていったのです。(v43、v44)ひたすらに自分の幸福や得のために生きる執着から解放され、与える歩みへと導かれていったのです。さらには、喜びがあり(v46)、神への一心な思いがあり(v46)、神を賛美していました。(v47)神を恐れる歩みに、いのちある交わり、喜び、楽しさがあったのです。そして、主は、毎日救われる人を仲間に加えて下さいました。(v47)

 

 

今、自分の内で罪を抱えているならば、そのままにしないで、また諦めたりしないで、神の前に苦しみと葛藤をそのまま告白し、イエス・キリストに拠り頼み、助け主なる聖霊に拠り頼んでいきましょう。また、一つひとつの判断と選択において、置かれた状況、自分の沸き上がってくる思い、世の価値観のみで判断し選択していくのではなく、十分に神に祈り、御言葉に聴きましょう。神を恐れる故に神を切に待ち望みましょう。自分や状況をまず見るのではなく、そこから神を見上げる信仰の習慣を身につけて参りましょう。神がまず私たちを愛して下さり、神の子どもとされました。神の愛に応答し、神を恐れ、真の祝福の歩みへと導かれ、神の救いの働きに用いられていく守谷聖書教会、一人ひとりさせていただきましょう。