聖書メッセージ『天の父に祈る』(マタイ6:7~8、7:7~11)

 

聖書箇所 マタイ6:7~8、7:7~11

6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 

説教要旨

本日は、神の子どもとしての歩みにおいて、「祈り」を見て参ります。「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。(6:7)」「異邦人(v7)」とは、ここでは「異教徒」を表しており、ローマ人を指していたでしょう。当時、ローマ人は、多神教でした。彼らも自らの信じる神々に祈っていたのです。しかし、その祈りは、機械的に同じ言葉を繰り返す祈りでした。それは、言葉数が多いほど、祈りの時間が長いほど、その祈りは聞かれ、答えられると考えていたためです。主イエスは、「異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。(6:7)」「彼らのまねをしてはいけません。(6:8)」と仰せられました。祈りにおいて繰り返しの言葉があってはならない、長く祈ってはならないということでは勿論ありません。問題とされていることは、言葉数が多いことによって祈りが聞かれるとの認識です。父なる神は、お願いする先に私たちに必要なものを知っておられるお方です。(6:8)言葉数が多いことによって、祈りが聴かれるとの認識は、心が自分の祈りの量に置かれています。言わば、祈りの量に信頼が置かれているのです。どれだけ祈ったかということではなく、お願いする先に私たちの必要を知っていて下さる天の父なる神に信頼を置いて、天の父なる神に向かって祈ることを教えられたのです。

 

では、お願いする先に必要を知っていて下さるのであれば、神に祈り求めなくてよいのではないか。祈っても祈らなくても関係がないのではないか。そうではありません。「求めなさい。そうすれば与えられます。…(7:7)」祈りの「熱心さ」「粘り強さ」を教えています。忍耐強い祈りです。神を待ち望み続けることです。(詩篇42:1、2、5)(詩篇130:5~6)では、何を祈り求めるのでしょうか。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。(6:33)」神の救い、そして神との交わりです。「主の祈り」もそのことを教えております。(6:9~10)神が神とせられるように、神の救い、神との正しい関係を祈り求めるのです。では、そのような「神との関係」「霊的なこと」のみを祈り求めるのでしょうか。いいえ。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(6:10)」日々の必要、体のこと、仕事のこと、苦難の具体的解決を祈るのです。また、日々の歩みにおける罪の赦しを(6:12)、誘惑に会うことなく、悪から救い出されることを祈るのです。(6:13)

 

その祈り求めを、天の父なる神は、確かに聴いて下さり、「良いもの(7:11)」を与えて下さいます。(v8~v11)「良いもの(7:11)」とは、複数形です。私たちは、良いものと言う時に、一つの形と直ぐにと考えるのですが、神の良いものとは、深みと時間的広がりがあるのです。神の愛の深き御心において、神の時、神の御名が崇められる形で、「良いもの(v11)」を与えて下さるのです。神は、私たちの祈りに、ご自身との交わりの深みへと導いて下さいます。日毎の糧を与えて下さいます。試練を取り除いて下さいます。また、試練の只中に置かれたままで、そこで神との交わりの深みという「良いもの(v11)」を与えて下さいます。

 

主イエスは、「だれであれ(7:8)」と「私を」祈りへと招いておられます。言葉数が多ければ、祈りが聞かれ、答えられるとの認識はないでしょうか。逆に、こんな小さき貧しき祈りは聞かれていないとの思いはないでしょうか。そんなことはありません。ちゃんと、天の父なる神は、その祈りを聞いて下さっておられます。また、祈っても祈らなくても変わりはないと心の奥で思っていないでしょうか。長い苦しみの中で神を待ち望むことに疲れてしまっていることはないでしょうか。天の父は、そういう私たちをご存知で、なお、私たちの忍耐強い祈りを求めておられます。御子を惜しまずに与えて下さった天の父なる神を待ち望み続けましょう。そして、天の父なる神が下さる「良いもの(v11)」の中を一日一日歩んで参りましょう。