聖書メッセージ『天の父の前に』(マタイ6:1~4)

聖書箇所 マタイ6:1~4
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

説教要旨
年の前半が終わろうとしています。この半年、私たちの心を良くも悪くも動かしたものは何だったでしょうか。主イエスは、弟子たちに「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい(v1)」と仰せられました。主イエスは、善行自体を否定しているのではありません。また善行を人前ですること自体を否定しているのでもありません。昨週見た「あなたがたは世界の光です」との使命の教えでは、人々の前に善い行いをなすよう教えられています。(マタイ5:14~16)一見、矛盾しているように見えますが、そうではありません。主イエスは、自分の称賛を得るために、即ち自分を喜ばせるために、善行をなすことがないように、善行の目的は、人々の前でなすことがあっても、また、人々のためになすことがあっても、天の父なる神が崇められることであると教えられたのです。私たちは、人と人との間で生き、人前で生きているのですが、根本において、父なる神の前に、父なる神に対し生きるのです。移ろい易い人の評価を父なる神の評価よりも第一とし、追い求め、それに支配されることを戒め、天の父の前で、天の父に栄光が帰されることを求め生きるのです。

 

さて、この神に栄光が帰されることよりも、自らが称賛を受けることを喜びとすることは、人間の罪の本質的なものと言えるでしょう。考えてみます時に、イエス・キリストを十字架につけたのは、宗教指導者の妬みでした。民衆の自分たちへの称賛や関心が、イエスへと向かっていったことの故でした。栄誉や称賛を求める心は、クリスチャンになったから全部解放されるのではないのです。絶えずその闘いの中に置かれます。四六時中その中で揺れ動きます。まとわりつく罪です。根深く根強い罪です。イエス・キリストは、ここで「気をつけなさい(v1)」と仰せられました。「警戒する」とも訳される言葉です。直訳は「気をつけ続けなさい」と継続を表します。信仰生活において、父なる神の前に生きることを失い、人前のみで生き、称賛を求め、評判に一喜一憂する、それを絶えず警戒し、気をつけ、父なる神の前に自らを置き直し、父なる神に栄光を帰していくのです。自らに栄光が帰されることを好む弱さを覚え、イエス・キリストの十字架の赦しと聖めに拠り頼んでいくのです。

 

天の父なる神は、その良い行ないを見ておられ、報いて下さいます。「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(v4)」これは、救い(義認)のことを言っているのではありません。救いは、行ないに拠らず、神の恵みに拠ります。これは、弟子たち、救われた者に対する神の報いのことです。天の父なる神は、この地において、深きご計画の中で、私たちにとって最善の形で報いて下さるのです。旧約聖書のヨセフがそうでしょう。でも、この地で報いを受けないこともあります。しかし、私たちが地上での信仰の道を走り終え、天の御座へ出させていただく時、天の父なる神は、私たちの涙を拭い去り、「良くやった。良い忠実なしもべだ」と仰せられ、天の御国で神にお仕えてしていく素晴らしい喜びの報いを与えて下さるのです。主イエスのたとえ話に出てくるラザロがそうでしょう。(ルカ16章)「あなたに報いて(v4、v6、v18)」と単数形となっております。父なる神は、十把ひとからげではなく、ちゃんとあなたの良い行ないを見ていて下さり、地において、そして、何よりも天において必ずや報いて下さるのです。私たちが覚えなければならないことは、結果や人の称賛ではなく、天の父の神の前に忠実であったか、天の父に栄光が帰されることを心から願っているのか、そのことです。

 

人の間で心揺れ動く時に、「天の父の前に」そして「天の父に栄光が帰されるように」、そこに絶えず戻り、天の父の報いを待ち望み、それ故に与えられる広やかな心をもって歩ませていただきましょう!
て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。