聖書メッセージ『キリストのからだ』(Ⅰコリント12:27~13:7)

聖書箇所 Ⅰコリント12:27~13:7
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
12:29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。
12:30 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。
12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 

説教要旨
昨週は「神の家族」を見、本日は「キリストのからだ」を見ます。第一コリント書は、パウロが、コリント教会が抱えていた課題を取り上げ記した手紙です。今日の御言葉は、異言を語る者が語ることができない者を卑下していた課題を背景としています。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(v27)」神は教会の中で人々を次のように任命されたとして、使徒、預言者、教師、奇跡を行なう者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などを述べ(v28)、v29とv30で「みなが〇〇でしょうか」と訴え、神は、それぞれ異なった賜物をお与えになられていると記しました。それぞれが異なっている賜物を持っているという時に、二つの課題がコリント教会にありました。第一は、自己卑下の課題(v15~v17)、第二は、他者卑下の課題です。(v21)他者と違う自分を認め、自分と違う他者を認めていくのです。主イエスは、ご自身のからだである教会を、それぞれ異なった器官によって建てられるのです。

 

異なった器官により建てられている教会において、大切なことは「愛」です。(13章)どんなに異言を語る賜物、預言の賜物、知識、大きな働きをなす信仰があったとしても、愛がないなら賜物や知識や信仰が教会に害をもたらすことがあり、値打ちがないのです。また、愛の行為と思える施しも、殉教さえも、愛がないなら役に立たないのです。(v1~v3)その「愛」とは、ほんわかした、漠然としたものではなく、具体的なものです。「寛容(v4)」人の存在や態度や行為を根本においてまず受け入れます。受身的なことだけではなく「親切(v4)」、言葉をかけ、手を差し出します。人の持っている良い部分や人が評価されることを妬まず(v4)、逆に自分ができることを誇り、人を見下げないのです。(v4)「礼儀に反することをせず(v5)」相手を思う配慮であり、自らの賜物は人と教会の徳を建てるためのものです。「自分の利益を求めず(v5)」自らの当然の権利を主張することにより弱い立場にある者を躓かせるなら主張しません。(8章~10章)「怒らず(v5)」怒りをコントロールし、「人のした悪を思わず(v5)」人のなした悪をずっと心に記録しないのです。「不正を喜ばずに真理を喜びます(v6)」何でも寛容というのではなく、罪に対し愛をもって真理を語り、戒めます。対決します。「がまんし(v7)」は「覆う」で、悪を暴き立てず、弱さや失敗を覆い、「信じ、期待し(v7)」信頼し、失敗してもなお期待し、「耐え忍びます(v7)」「一つ所に踏み留まる」との言葉ですが、「覆い、信じ、期待し」の所に踏み留まります。「すべて」とは、何でも覆い、信じるというのではなく、「徹底性」を示し、この愛の原則に立ち続けていくのです。


さて、「愛」の所に自分の名前を入れてみると、自分の罪が分かると言われます。私たちは、愛の貧しさを覚えるのではないでしょうか。愛の教えの結論は、「愛を追い求めなさい(14:1)」先ほどの「愛」に、今度はイエス・キリストを入れてみましょう。キリストは、人を愛し得ない私を愛し、御自分を捨て、私の救いのために、十字架に架かり、赦し、受け入れ、すべてを覆い、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍び、ともにいて下さるのです。そのイエス・キリストの愛を求めていく時に、私の内にはない愛の小さな芽が生まれてくるのです。「愛は、罪人の私たちの心に神の起こして下さる奇蹟です(山中雄一郎牧師)」愛は、最初から備わっているものではなく、追い求めるならば、内に与えられていくものです。愛を熱心に求めるのです。しかも継続を表す動詞の形となっております。求め続けるのです。「愛せなくても仕方がない、罪赦された罪人に過ぎないのだから」との思いとなることがあります。でも、私が愛することを失敗し、私が私を諦めても、イエス・キリストは、私を諦めず、すべてを覆い、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを忍耐して下さっているのです。その主イエスの愛を日々新たに追い求めていきましょう。