聖書メッセージ『互いに赦しあうことを』(エペソ4:31~32)取手聖書教会 山田洋一牧師

聖書箇所 エペソ4:31~32

4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

 

説教要旨 取手聖書教会 山田洋一牧師

エペソ書は、パウロがローマの獄中から、三年間開拓に携わったエペソ教会の人々に書き送った手紙です。1-3章までパウロは私たちがキリストにあって罪赦されたことの素晴らしさを語ります。かつては「2:3 …自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子ら」だった自分たちが「2:4 …あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。

 

それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」とその救いの尊さを伝えます。賜物とはプレゼントのこと。信仰によって救われる。罪赦されて、神の子にして頂く。その実現のために神様は何をして下さったのか?御子イエス様の命を代金にして私という存在そのものを買い取って下さった。これ以上高価なものはない。だから神からの救いはプレゼントとして頂くしかないのです。

 

その恵みのすばらしさを伝えて、4章からパウロはクリスチャンのあるべき信仰の歩みを命じます。神に召された者の生き方、特に25節以降のあるべき人間関係のまとめとしてパウロは、「互いに赦し合いなさい。」と勧めるのです。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり」。古い人の特徴的な言動。それらを総決算して「いっさいの悪意とともに、みな」捨て去れ!とパウロは言うのです。「無慈悲」とは、「執念深さ」という意味です。第一コリントでパウロは愛を「13:5人のした悪を思わず」と定義しました。「思う」は、「記録する」の意味です。人がした悪いことを記録する、数え上げる執念深さです。「怒り」は、一時に爆発する感情。「憤り」は、ずっと根に持つ怒りです。「叫び」は、声に出して相手に投げかけた怒り。「そしり」は、相手のいないところで悪口を言うことです。悪意は、相手への悪感情。不信感、不満、殺意(いなければいい、という思い)…。

 

そのすべてを捨て去りなさい、とパウロは言います。パウロは、決して実現不可能なことを人に要求する人ではありません。彼自身、濡れ衣の末、ローマの獄中にあります。明日をも知らない身となれば、不安とともにあまり健康的なことは考えないのが普通です。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」と命じたパウロは、確かに捨て去ったのです。

 

「4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」。「親切」は、あわれみ深い、慈悲深いと訳され、普通は神様が人をあわれまれる、という時に使うことばです。(ルカ6:3、ローマ2:4)。この親切にするという愛は、キリストを知る以前の古い人にはない性質なのです。「赦す」とは「恵みを与える」、の意味です。それは「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださった」めぐみです。神様が私の罪を、キリストの十字架のゆえに赦して下さるのも、まったく同じ理由。私をかわいそうに思って下さる。あわれんで下さるのです。聖書は私たちが赦すものになれる、きっとなれると、励ましてくれます。

 

「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように…」とあるように、愛にはモデルが必要です。私たちは、キリストというこの上ない愛のモデルによって、この私自身が愛され、赦されている恵みを体験しています。パウロが獄中で思ったことは、悪意から人にされたあのこと、このことではなかったのです。自分が赦されている。ありのまま100%神様に受け入れられている。パウロは罪全てが赦されている事実を、喜んだのです。感謝したのです。その罪赦された者としての、感謝と喜びが、彼を不健康な「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり」から守ってくれました。

 

赦しの中を生きていく、その約束の世界を生かされていることに感謝しながら歩んでいきましょう。