聖書メッセージ『万軍の主の御名によって』(Ⅰサムエル記17:31~50)

聖書箇所 Ⅰサムエル記17:31~50
17:31 ダビデが言ったことを人々が聞いて、それをサウルに知らせたので、サウルはダビデを呼び寄せた。
17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
17:33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」
17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、
17:35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
17:36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」
17:38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。
17:39 ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、
17:40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。
17:41 そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。
17:42 ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。
17:43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。
17:44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
17:46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
17:47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。

 

説教要旨
本日の箇所は、ダビデがゴリヤテを倒すことが記されています。この時、イスラエルとペリシテは、谷を隔てて相対していました。(v3)ペリシテ人の巨人ゴリヤテは、自分との代表戦を挑みました。背の高さは286㎝。イスラエル人は、ゴリヤテの言葉を聞き、意気消沈し、恐れました。(v11)ダビデは、父エッサイより兄たちの安否を問うために戦いの場へ送られ、ゴリヤテのイスラエルを蔑む言葉を聴きました。イスラエル人はゴリヤテを見、逃げ、恐れましたが(v24)、ダビデは「生ける神の陣をなぶるとは(v26)」と述べました。ダビデは、戦いを神との関係の中で捉え、国々が神がイスラエルの民とともにおられることを知るためとしました。(v46)

 

私たちの歩みにおいても様々な闘いがあります。①「世の闘い」があります。世界は、神に造られた素晴らしいものですが、神に背を向け、敵対しています。そこで、生ける神がおられることを現わす証の闘いがあります。この世において主の教会を建て上げていく闘いがあります。②「内なる罪との闘い」があります。神への信頼が揺れ動くことがあります。世の価値観にぐーんと心ひかれることがあります。人間関係の中で絶えず魂が揺さぶられます。③「日々の務めの闘い」があります。仕事、子育て、介護、勉強があります。それら全てを通して、神の栄光を現わす闘いです。そして、その背後には、悪の力、罪の力があるのです。(エペソ6:12)

 

では、それらの闘いにおいて大切なことは何でしょうか。ダビデは「私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。(v45~v47)」と述べ、主の御名によってゴリヤテに勝利したのです。(v49~v50)私たちは、試練や闘いの場に置かれる時、サウル王やイスラエルの民のように、巨人ゴリヤテの言葉を聞き(v11)、ゴリヤテを見(v24)、そして自分を見、意気消沈し、恐れます。でも、そこで聴き、見上げなければならないお方がおられるのです。「神の言葉に聴き、主を見上げる」のです。但し、それは、大きな試練や闘いの場で、ぱっと出来ることではなく、日々の歩みにおいて養われていくことです。ダビデも、いきなりゴリヤテに対しそのような信仰をもって戦ったのではなく、日々の羊飼いの働きの中で主に信頼し、主の御力を経験していたのです。(v34~v36)ダビデは、家の中で冷遇され、力ない者とされ、羊の世話をさせられていたようでした。(v28)でも、その日の当たらない羊飼いの場で、主に信頼し、主の御力を経験していたのです。ゴリヤテとの戦いの勝利は、日々の主への信頼の延長線上にありました。

 

「万軍の主(v45)」「万軍の(v45)」という言葉の直訳は、「戦いに出かける」との言葉です。私たちが闘いの中にある時、主は、私たちの闘いを眺めておられるお方でないのです。先立って闘って下さるのです。イエス・キリストは、自分の命を懸けて、私たちを罪から救い出して下さいました。サウル王は、結局、ダビデとともに戦いに出かけませんでした。自分を守りました。ダビデ独りで向かいました。しかし、ダビデ独りではありませんでした。主の戦いで、主がダビデとともに戦っておられたのです。イエス・キリストは、生きておられ、私たちの一つひとつの闘いにおいて、眺めておられるお方ではなく、ともにあって闘って下さるお方、先頭に立って闘って下さるお方です。聖霊は、私たちが呻く時にともに呻き、祈れない時に、私たちのためにとりなして下さるお方です。そして、ダビデのごとく、ご自身に信頼し歩んでいく者に、勝利を与えて下さるのです。

 

世の闘い、内なる罪との闘い、日々の務めの闘いにおいて状況や自分だけを見るのではなく、そこから主イエスを見上げましょう。キリストは、聖霊は、私たちの闘いの場でともに闘って下さるお方であられ、主に信頼して歩む時に、神の栄光を現わす勝利へと導いて下さるのです。